ホストが客人に勧めた酒は、この地域特有の白酒だった。円は秘書がテーブルに置いた酒のボトルを手に取る。高いアルコール度数で知られるその液体を小さめのコップに注ぎ、向かいの波留へと出してきた。
 波留はそれを受け取る。手元に来たそのコップからは、途端に良い香りが漂ってきた。彼は試しにそれを一口啜る。薫り高い味が口の中に広がるが、その口当たりはいい。しかし度数が高いのだから、調子に乗ってあまり飲み過ぎない方がいいのだろうと自制した。
 その耳に、円の声が届く。
「――大都市に流通するような銘柄ではないので、アルコール度数は高いままです。お口に合えばいいのですが」
「ええ。元々酒には強い方なので、大丈夫のようです」
 波留は顔を綻ばせて、円にそう応えていた。やはり酒が入ると、何処か笑顔になってしまうのを彼は自覚する。「酒に強い」と自己判断している以上、一口程度では流石に酔ってはいないとは思う。しかし、酒が出された時点で既に楽しい気分に陥るのは否定出来ない。
 つくづく自分の事を救い難い酒飲みだとは思うが、相対している人物からも同類との自己申告を事前に貰っている。ならば取り繕う事もないだろうと、彼は踏んでいた。
 コップの縁を口から離す。息をつくと、酒の香りが呼気から漂うのを実感した。体中に染み渡る感覚に、波留は目を細める。
「大陸産の酒は、人工島建設の頃にもたまに屋台で飲んでましてね。懐かしい味だと思います」
 口から突いて出てきた表現の通り、波留は懐かしさを感じていた。現在において、彼は然程酒を飲んでいない。元来は酒好きだと自覚しているのにだ。
 酒が人工島で入手出来ない訳では勿論ない。現在の彼が得ていないのは、酒を飲むだけの理由と機会だった。波留真理と言う人物にとって、酒は独りで静かに飲むものではない。誰かと共に楽しむものだった。
 そう言う相手は、今も居ない訳ではない。公私共に世話になっているフジワラ兄弟からは、彼がドリームブラザーズにて勤務した後の晩にビールを勧められる事も多い。或いは電理研にてメタルダイブした後に、他のダイバーと飲みに行く事も、たまにはあった。しかし、彼から他者を誘う事は殆どなかった。
「ほう…」
「一番馴染みがあったのは、財布と相談すると、やっぱりビールで…あの時代も青島ビールがメジャーでしたかね」
 円はそんな波留に相槌を打つ。彼も波留とは同世代である以上、人工島建設の時代を知っている事になる。当時には面識はなかったはずだが、同じ時代を生きていた事実には共通点を見出さずにはいられない――波留が抱えた諸事情に拠り、その時代は微妙にずれているかもしれないが。
 一方の波留は微笑んでいた。しかしその瞳は何処か遠くを見ている。彼は正面のホストではなく、懐かしい想い出へと視点を飛ばしているようだった。
 あの銘柄のビール特有の青とも緑とも表現出来る色の小瓶を、コップも無しに口で直接飲んでいたものだった。各種言語を用いるアジア人の集団に飲み込まれた騒がしい屋台村に引きずり込まれてくれたのは、日本人の同僚の中でも只の独りだけで、彼自身その親友しか連れて行った事はない。それは何故なのだろう?
 そうして彼らは、どうでもいいような話を肴に、小瓶をテーブルに積み重ねて行ったものだった。話の糸口は、仕事に関連するような真面目なものだったかもしれない。しかし酒が入っている以上、その方向は定まらず危ういものになっても仕方がないだろう――。
「――それは大陸全土に流通するような有名銘柄ですが、この地域に持ち込むには多少遠方に過ぎますな」
 円の穏やかな説明が波留の耳に届く。その声が、波留の回想を打ち切っていた。
「…そうでしょうね」
 やや間を置いて、波留は頷いていた。コップを傾けて、液体を口の中に注ぎ入れる。そこに収まっていたのは蒸留酒だと言うのに、彼はまるでビールのような麦芽の苦味を感じたような気がした。
 
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