「――私とて人間です。あまり好ましくない扱いを受けかねないと判っていて、長年私に尽くしてくれた部下達を、あなた方に売れと?」
 無表情に円はそう告げる。それは婉曲的ではあるが、拒否の姿勢だった。人脈とは一昼夜で築く事は適わない財産である。それを裏切り切り崩すだけのメリットは、今回の一件の何処にあるのだろう――実利的にはそう言う話である。無論、円が言ったように人情に訴えかけてくるような理由もない訳ではない。
 要求を突き付けてきた波留は、そんな円から視線を外さない。淡々とした口調を崩さないまま、語りかけた。
「まず、僕が皆さんに話を伺いに向かいます。僕が容疑の確信を得てから、その人物の存在を人工島に報告するつもりです」
 その言葉に、円は顔を上げた。そこには怪訝そうな表情が浮かんでいる。
「…あなたが?」
「はい」
 円が率直に浮かんだ疑問を向けると、波留も速攻で頷き応えた。そこに、円は更に確認を取ろうとする。
「あなたは、電理研委託メタルダイバーとの地位は変わっていないと伺っています」
「はい」
 波留にまたしても頷かれる。となると、円には判らない事が出てきた。次は、それを訊く。
「…今回の件について、あなたは人工島から捜査権でも与えられているのですか?」
「いいえ」
 その端的な答えに、円は今度は面食らった表情を浮かべた。――つまりは、はるばるやってきたこの男は、全くの独断で動いているらしい。となるとこの報告書の持ち出しも独断だろうし、自分に会いに行く事すら誰にも話していないようだ――それを悟る。
 円から元協会員の情報を得ても、それをそのまま人工島側に引き渡す事はしない。あくまでも波留が独自の精査を経て、確証を得てからその「容疑者」の情報を人工島に提供する――波留はそう言う心積もりらしい。
 その「確証」の根拠とは何か。一応人工島における捜査情報は持ち出してはいるのだが、本職の捜査官でもない彼が事情聴取を行うにせよ、それは直感頼りになるのではないか?確かに彼は真実を見抜くだけの冷静さを持ち合わせてはいるようだが――。
「――暫く人工島には戻らないおつもりですか?」
 しかし、そこで円の口から出てきた問いは、全く違う観点からのものだった。それまで彼の心中に渦巻いていた疑問ではない。
 波留にとってもその問いは予想外だったようだ。軽く身じろぎする。伸びた髪が僅かに揺れた。しかしその動揺もすぐに引く。軽く瞼を伏せ、口を開いた。
「…ええ。真相を究明するまでは」
「…そうですか」
 今度は円が頷く番だった。右手を顎に当て、考え込むような仕草を見せた。その様子を、波留は見ている。その表情は平静そのものだった。
 やがて円は手を下ろした。口許に、僅かに笑みを浮かべる。
「――…私とて、久島君を害そうとした人間を放ってはおけませんな。それは確かだ」
 言いつつも彼は正面に置いていた報告書に手を伸ばした。彼は再びそれを手に取る。
「内容が内容です。すぐにはお返事出来ませんが、善処はしましょう」
 円のその応えに、波留も少し微笑んだ。安堵らしきものを含んだような溜息を漏らす。彼もまた、この時点でようやく表情に笑みを戻した事になる。
 波留が円から引き出したその回答は、必ずしも承諾ではない。一旦保留とも解釈出来る代物だった。それでも、先に出ていた婉曲的な拒否からは一歩前進している。
 波留としては、とりあえずはそれで満足するつもりだった。何せ円当人が示唆したように、波留は一方的に情報提供を願い出ているのである。気長に交渉を進める事となっても仕方のない立場だと自覚していた。
 交渉中に漂っていた緊張が、この時点では僅かに解けてゆく。そこに、静かだが確実な音量で扉がノックされていた。了承を得る声を経て、その扉からは静かに秘書が入室してくる。
 相変わらずタイミングを見計らったかのような来訪である。まるでこの家屋の各所には監視カメラでも設置されていて、それを控え室か何処かでチェックして動いているのかと勘違いしたくなるような秘書の行動だった。
 しかし、当然ながらそのような事実はないのだろう。少なくとも波留はそう信じていた。客人は家の事情に深入りしない方がいいとも理解していた。
 秘書が入室してから微かに漂ってきた香りに、波留は気付いていた。その香りが何であるか、彼にはある程度は推測がつく。そしてそれを知った時点で、相好を崩していた。彼にとっては反射的な行動である。
 波留が視線で追う秘書はトレイを掲げており、その上には空のコップが2個と中瓶が1本置かれていた。瓶の口からは栓などが取り払われており、そこから僅かに白い煙めいたものが漂っている。中の液体が気化している様子で、香りもそこから放出されて波留の元まで届いていた。
 その香りからも判るように、瓶は何らかの銘柄の酒だった。酒が嫌いではない波留は、思わずその香りに反応していたのだった。
 その頃には、僅かな笑い声が波留の耳に届いていた。その声がした方に目をやると、向かいの円が微笑んでいた。どうやら見透かされていたようで、波留は苦笑を浮かべる。しかし、悪い気分はしない。そもそもホストのこの人物も、自分同様に酒好きであると先に自白していたではないか――そう思うと、自分勝手な話だが仲間意識が芽生えてくるのだ。
 弛緩した緊張は和やかな空気へと変化してゆく。それを導くように、無表情な秘書は静かに酒瓶を傾けてコップに注いで行っていた。
 
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