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静寂に満たされた部屋に、放熱用ラジエーターが立てる僅かな音が微かに響いている。その時折に、紙が捲られる音が聴こえていた。 波留が手渡した書類の束を、円は無言で目を通してゆく。文字を追って眼球が左右に動いているのも傍から見て取れるが、そのペースも一定だった。かと言って手渡した当人を前にして書類を読み飛ばしている訳もなく、淡々と情報のみを脳内に取り込んでいる最中なのだろう。 円のその様子を、対面の波留も静かに見守っている。彼はテーブルに両肘を突き、顔の前で両手を組んでいた。その影に、顔を垣間見せている。組まれた両手の上から視線は通っており、その瞳は何ら感情めいたものを映し出していない。 やがて、円の眼球運動が静止する。無言のままではあるが、僅かに口を開く。彼はその目を細め、眉を寄せて顔を顰めた。 彼が捲り上げて行った紙は、全てクリップに止められていた。捲り上げられた状態からしてそのページは最後の方に至っているようで、彼の視線はその下部に向けられている。そこは、この報告書の最後のページである。 報告書自体は人工島にて執筆されたものであり、それ故にメタルのワープロソフトを用いていた。人工島から出立するに当たって、波留はその報告書をプリントアウトし、この旅に携帯してきた。 その、人工島島民の殆どが存在すら知らない報告書を、波留は独断で持ち出して外部の人間に閲覧させている。重大な機密の漏洩と、人工島を統べる評議会から訴えられて然るべき状態だった。 更に付け加えるならば、今ここで円が閲覧しているこの報告書には、人工島に提出されたものとは違う点が存在していた。それこそが、円が注視している箇所である。 報告書最終ページの最終行付近、空欄状態となっている空きスペースに、手書きで走り書きされた文字列があった。 仮に電脳に保存されている筆跡照合プログラムを実行すれば、それは波留の手によって書かれたものであると円にも確信出来ただろう。しかし彼は、波留の筆跡データを事前に準備出来ていない。それでも、状況からしてそれを書いたのは波留であると推測は可能だった。 もっとも、彼にとってはそれを書いたのが誰であるかは、大した問題ではない。彼が顔を顰めたのは、その文字列が人名を表していると一見して気付いたからであり、更にはその人名に心当たりがあったからだった。 円は捲り上げた紙の一端を、指先で弾く。意識しての行動ではなかっただろう。しかしそれを見計らったように、向かい側の男が口を開いてきた。 「――その人物が、今回のテロに関与している可能性があります」 あくまでも淡々とした声が室内に響く。波留は平静を保ち、両肘をテーブルに突いたまま円に語り掛けていた。彼には円が何処に目を留めたか、直接には確認出来ていないはずである。しかしページの進み具合などから推測し、その言葉を投げかけたようだった。 その台詞内では、特定の人名が挙げられた訳ではない。しかし円も、波留が言わんとする事を理解していた。 そして彼は更に眉を寄せる。片手を紙の上に伸ばし、指先で一部をなぞり上げた。そこを、軽く弾く。対面側から見ていた波留は、弾かれたそれは今話題に上っている人物の名だと直感した。 円の顔の前に上げられていた報告書が、すっと下がる。彼は波留に対し、顔を露わにしてみせた。先程からの顰めっ面は解除されておらず、対面時からの笑みはすっかり口許から消え失せている。 「――私も、あなたから疑われているのでしょうか?」 円は波留にそう問い掛けた。それは、至極もっともな疑問だった。 今回のテロ関与を疑われる人物は、彼にとっては元部下である。その情報を、自分の元へと持って来られたのだ。それも交通の便が良いとは言えない距離をはるばる旅しての行為である。その言外には上司の関与をも疑っているのかと、彼が解釈しても不思議ではない事態だった。 「…いえ、そんな」 対する波留の返答には、僅かな間があった。それをどう解釈すべきかは、人によって感じ方が異なるだろう。本当に疑っているのか、それとも違うのか。或いは「疑っている」と勘繰られた事に戸惑いを覚えているのか、そう勘繰らせるような態度を取っていた事に申し訳なさでもあるのか――傍から見ていただけならば、いくらでも解釈は可能だった。 ともかく波留は、短く応えた。テーブルに突いていた両肘を下ろし、その片手を顔の前で僅かに横に振ってみせた。その言動からは、とりあえずの否定の意思表示が見え隠れしている。 そして波留は顔を上げた。両手をテーブルの上で組む。正面から円を見据えた。真剣な面持ちを向ける。そこには、先程の戸惑いなどは全く存在しない。 「――只、協会の方々の現状などをあなたが御存知であれば、伺いたいのです。僕はそのために、こちらへ旅して来ました」 それは強い口調ではない。しかしその瞳に浮かぶのは、断固とした意志だった。それを、円は真正面から受け止める。しばし視線を合わせ、沈黙を保った。 やがて円は目を伏せた。若干長く、溜息をつく。手にした報告書を、丁寧に捲ってゆく。表紙が一番上に来るように持ってきて、留められたクリップ付近の曲がった紙を撫で付けて整えた。長距離の移動によって紙の端々は細かく折れ曲がっていたが、それも伸ばす。 とりあえず整え直したそれを、彼は自らの目の前のテーブルの上に置いた。真っ直ぐに位置するように置かれたその表紙の文字をちらりと見やる。 |