「気象分子協会」とは、その組織名が示す通り、気象分子に関わる団体である。人工島の次世代産業と位置付けられた気象分子の開発を長年主導し、今年には遂に運用実験に漕ぎ着けた集団だった。
 しかし彼らが開発した気象分子は、周知の通り最悪の結末をもたらした。
 そのナノマシンは、大気中の水分子を分解、或いは再構築する事により、自在に降雨現象を操作する事が可能とした。だがその効果は、地球上に元々存在する「水」とは相容れずに反発するものだった。その反発が未曾有の大災害を引き起こしそうになり、それを防ぐためには世界中の電力の意図的なダウンと、それに伴う24時間のメタルの停止を実行せざるを得なかったのだ。
 騒動の後、彼らの組織は批判の矢面に立たされた。この最中に人々は何らかのメッセージを心に受け止めており、それが「異変を引き起こしたのは気象分子」と伝えて来ているからだ。誰もが、この大異変の原因を理解していた。
 人工島の次世代産業を担うはずだった彼らへの評価は一変した。約束されていた華々しい未来は消え失せ、彼らはその事件の責任を取る形で解散に追い込まれている。気象分子の研究も、それに伴い凍結された。研究機関が解散した以上、続行は不可能である。それに、全世界の人間が理解してしまった今、その誰もが気象分子そのものを忌避する事だろう。
 技術者としての構成員は、離散した。次世代産業を担っていただけの事はあってその構成員のレベルは非常に高く、電理研に匹敵していた。
 しかし状況からして人工島に身を置き続けるには厳しいと思った人間も多いようで、少なくない技術者が島外へ流出した。あまりにも惜しい知識層の流出ではあるのだが、「社会の敵」と認定されかねない立場の人々を慰留出来る人間は、人工島には殆ど居なかった。かろうじて電理研が一部人員の受け入れを表明した程度である。
 ――あれ以来、気象分子協会の構成員は、そのような立場に置かれたのである。その中には、人工島に恨みを持つ人間が居てもおかしくはない。
 そしてその恨みは電理研統括部長である久島永一朗個人に向かう可能性も、否定出来なかった。彼は、気象分子散布予定日を目前に控えた臨時評議会の席上にて、唐突に計画の見直しを提議したのである。
 確かに環境保護団体など、前々から計画に反対していた人々は少数ながら存在していた。しかし、それまでの久島は協会長にして気象分子の提唱者であるジェニー・円に対し、電理研を挙げて協力し続けていたのだ。
 そんな彼の突然の豹変は「協会への裏切り」「土壇場で盟友の梯子を外した」「現在までメタル産業を牽引してきた電理研の最後の抵抗」などと解釈されかねない。そして実際に、一部メディアにはそう勘繰る記事が書き立てられた。公的メディアですらそうなのだから、個人が抱く考えならば尚更だろう。
 久島が様々な人間に恨まれるには充分な理由が、そこに横たわっている。そして恨みの感情とは、漠然とした組織にぶつけるよりも、個人に対して抱く方が実感を伴い易い代物だった。
 が、それらの事実はあくまでも、その人物がテロに関わっているとの疑惑の水位を増しただけだった。疑惑は疑惑であり、確証ではない。人工島を揺るがしかねない重大事件の容疑者として扱うには、慎重を期す必要がある。
 そもそも「恨み」が、今回の動機付けとも限らない。久島は歴史に名を遺すレベルの科学者であり、その知識と記憶とは人類の宝とも目される。それを入手したい人間は数多い。それは彼がメタルに解けた直後、火事場泥棒として大勢のメタルダイバーが記憶の断片を求めて群がってきた事からも良く判る。
 それこそ、当代随一だった科学者の知識を欲するがため――只、それだけの理由で、このようなテロを目論む人々が居ても全くおかしい話ではない。
 ――波留は自らを懸命に、そう律していた。
 疑惑の水位を確証のラインまでに押し上げるには、そこに至るまでに証拠を積み上げる他ない。それには地道かつ緻密な作業が求められた。
 それでも、唯一掴んだ手掛かりめいたものを無視する訳にはいかない。仮にレッドが気象分子協会の元関係者と接触を持ったとするならば、協会のメンバーの現況を調査するのは無駄ではないと思えた。
 しかし、人工島に残った人間は追跡調査が可能だが、島外に新天地を求めた人間の消息を辿るには限界があった。最早人工島の住民でない以上、彼らのプライバシーへの考慮は重要になってくるからだ。下手に容疑者扱いしてしまうと、国際問題になりかねない。そして波留が捉えたその人名の持ち主は、島外の人と成り果てていたのだ。
 そうなると追跡者たる波留としても、視点を変えざるを得ない。別の手法を模索する事とした。
 大きな組織を運営統括してきた人物とは、そこから去ったとしても影響力を残すものである。それは電理研においても見事に証明されている。
 気象分子協会は解散し、所属メンバーも離散した。島外に去ったメンバーには、協会長だったジェニー・円も含まれている。
 円は他のメンバーとは異なり多少事情が特殊で、人工島に残りたくても残れない身分だった。何らかの責めを負う事となった組織の長たる者は、その責任の大半を担う。それが社会の常であり、彼もその例外ではなかったからだ。彼は評議会から人工島の滞在許可を取り消され、退去処分を受けた。そのために、彼は8月中には人工島を去っていた。
 しかし、人工島におけるその影響力は消失してはいない。彼が関わった事件を思うと、出来る限り彼との関係を消し去りたい人間も確かに多い。だが、必ずしもそうとも言い切れない勢力も少なからず存在はしていた。
 それは、現在の人工島を統治する主流派への反感が糾合したような勢力である。タカナミ書記長や現電理研の体制に不満を持つ人間は確実に存在している。その彼らは、以前の体制の一角を担い、現状では島を追われた円の存在を求めていた。
 しかし現在の彼は「社会の敵」として捉えられかねない存在である。そのために大っぴらに彼をシンボルとして掲げる訳にも行かず、水面下かつ暗黙の了解として反体制派は動いている様子だった。可能ならば再び彼を人工島に迎え入れたい事だろうが、おそらくはそれは叶わないだろう――。
 ともかく政治には特別に関わっていない一般島民たる波留にも、その程度の情勢は理解出来ていた。そして彼は、メタルダイバーとしての技術を用い、一般島民以上の事を行った。反体制派と目される評議員や諮問委員を割り出し、その全員のメタルを監視したのだ。
 これは盗聴行為に他ならず、捜査の一環として行うには許可が必要である。しかし彼はそれを得ていないまま、独断で行った。更に許可を申請したにせよ、ここまで広範囲のメタルには認められないだろう。それでも波留にはそれは技術的には充分に可能であり、心情的にも躊躇いは見られなかった。
 メタルに枝を張り巡らせた末に、彼にはある評議員の動きが目に付いた。人工島外の人間とコンタクトを取る島民は、さして珍しくはない。しかしその評議員が通信していた相手の接続ポイントが、中国大陸の内陸部であり未開発の地域だったのだ。資産家の評議員ならば人工島同様に投資を行う事もあるだろうが、ここがそのような地域とも思えない――。
 そんな疑惑を抱きつつ、波留はその通信相手のデータを分析した。すると、その相手は彼にとって全くの初対面ではない事実が明らかになった。手持ちのリストと照合が可能だったのだ。
 表示した画像データを眺めると、波留の記憶にもその姿は残っていた。そしてリスト登録の紹介文を読むと、その理解が補強されてゆく。
 その人物とは、ジェニー・円の秘書だった女性だった。
 
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