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2061年10月31日。 この日、人工島は有史以来2度目の要人テロを体験した。先の7月の事件に続き、立て続けに不幸に見舞われた格好になっている。電理研付属メディカルセンターに武装グループが侵入したのである。 彼らの目的は、加療目的で入院していた電理研統括部長たる久島永一朗の身柄拘束だった。 表現に正確を期するならば、その目標は「久島部長の脳核に保持された知識と記憶の奪取」となる。久島は先の7月の事件の過程においてブレインダウン症例の身の上になっており、既に意識はリアルには存在しない。彼のパーソナリティを失い抜け殻と成り果てた脳核を、自らの義体に収めているだけの存在だった。 しかし現在の電理研首脳部と評議会は、一縷の望みを賭けて彼の治療を開始していた。ブレインダウン症例から意識を復帰させる患者も、現実に珍しくはないからである。メタルが抱える大きな問題点であるブレインダウン症例には、それ故に対処法も徐々に確立しつつあった。 とは言え彼の意識が解けたメタルは、7月末に世界的な能動的な電力停止による起動停止とその直後の再起動を経験している。その過程において、広範なメタルが保持していた莫大な過去のデータが全て消失した。それに伴い、データに紛れていた彼の意識も、次元の彼方に消失したはずだった。だからこそ「一縷の望み」なのである。 それでも「復活の可能性はゼロではない」と計画を実行に移したのは、メタル内では理論的に説明がつかない事象が発生する事がままあるからだ。或いは、消失した久島の意識についてもそう思いたかった人間が、人工島の支配層の中にも少なからず居たのだろう。 ともかく、久島のメディカルセンター入院の事実は、一般には伏せられていた。だと言うのに、テロリスト達は紆余曲折の末にその事実を突き止め、襲撃を掛けたのである。 結果的には1日にも満たない短時間ではあったが、秘密裏に様々な人間とその思惑とが水面下で蠢いた末に、人工島側によってテロリスト達は制圧された。久島の脳核も7月同様に危機には晒されたが、今回は無事に確保されていた。 この事件については、人工島側はどうにか収拾をつけた格好になっている。前回とは違い、テロの発生自体を関係者以外には一切知られる事なく、全てを終わらせる事に成功していた。 前回のテロでは人工島のみならず世界中を巻き込む羽目に陥り、人工島への篤い信頼を失墜させてしまっていた。その被害は経済的にも甚大な規模となっている。その傷がようやく癒えた頃合いに2度目のテロが発生したと世界に知れては、人工島に二度と信用は戻らなかっただろう。 人工島は厳密には国家ではなく、アジア諸国から出資者を募って運営している経済特区である。その彼らからの信頼を失った挙句に資金や投資、或いは参画企業が引き揚げられたなら、この島は終焉を迎えかねなかった。 その最悪の事態を回避したのは、人工島にとってはこの上ない僥倖だった。再来した危機は去ってゆき、その事実を殆どの島民に知らせる事無く終了させる事に成功したのだから。 しかし、丸く収まったのは、この10月31日に勃発した事件そのものについてのみである。 それでは、このテロの首謀者は一体誰なのか。何時から計画されていたのか。今回の実働部隊の身柄は拘束したが、他に関与した人間は居ないのか――そう言った前後関係については、殆ど明らかにされていない。 今回の現場やその周辺に配置されていたテロリストは、電理研調査部が全員捕縛し管理下に置いている。 しかし、情報の管理こそが現代社会の重要点である。生脳すらハッキングして情報を抜き取る事が可能な現代の技術レベルにおいて、その防御の徹底は絶対に必要だった。 メタリアル・ネットワークと言う技術は、各人の領域に強固な安全性を確保しているのが大きな特色となっている。それに加え、大抵の人間は市販の防壁ソフトを併用しているし、技量がある者は防壁ソフトに独自の改良を加え外部からの侵入に備えていた。 しかし、情報漏洩に対しては、それらよりも最も単純にして絶対的な防御策が存在する。それは現代のメタル社会に始まった事ではない。古代から延々と伝承されて来ている、共通した手法だった。 最初から、漏れてはまずい情報を保持しなければいいのだ。そうすれば、仮にその人間がハッキングされたにせよ、相手のハッカーが望む情報を渡さないで済む事になる。つまり、重要情報を握らせる人間をあらかじめ選別しておくのである。 そしてこのテロリスト達は、その手法を徹底していた。作戦における重要な事案は全て、リーダーたるコードネーム「レッド」の管理下にあった。そしてその彼は、彼以外のメンバーには計画実行に必要最低限な情報しか知らせていなかったのだ。 これはメンバー間の明らかな差別化ではあるが、レッド以外のメンバーはそれを了承して動いていた。彼らとて「知らない方が良い事もある」とのある種の社会の原則の元に生きてきたのだ。重大な秘密を知ってしまえば生命が脅かされる可能性も増すし、何より事件への関与性が減少すればそれだけ発覚時の罪も軽くなる。「何も知らない」と言う事実は結果的に後々彼らを助けるのも明白であり、実際に拘禁後の彼らはそう言う扱いを受けていた。 そして、いざ自分が捕らえられ情報漏洩の危機に瀕した際に、レッドは更にその手法を徹底する。彼は仕込んでいた初期化プログラムを、拘束時に自らの電脳に実行したのだ。そうする事で彼は保持した情報を、全て消去しようと図った。 それは、苛烈な決断だった。初期化プログラムが発動すれば、彼自身の自意識すら消去されてしまうのだから。 プログラムが完遂されてしまえば、そこに残るのは生命活動を維持しているだけの肉体のみである。意図的に脳のデータを初期化してしまうのだから、ブレインダウン症例よりも意識回復の難易度は跳ね上がる。彼の目論見通りに全てが動いたならば、修復の可能性はほぼゼロと言って良かった。 しかし、彼が拘束され尋問を受けた現場は、メディカルセンターの処置室だった。その場にはメタルダイバーやメタル技術者、或いは義体技師達が揃っていた事もあり、初期化プログラムの発動は途中で阻止されていた。 結果的に、彼の初期化は完全には実行されなかった。それでも一定の深度で発動している初期化プログラムは、少なくない効力を発揮している。彼の意識を含めた全ての情報を暗号化するには至っていた。 その解析には非常に手間が掛かる。その作業を、電理研はメタルダイバー波留真理に一任した。彼は電理研が知る限り最高のメタルダイバーであり、この事件に深く関わっている人物でもあったからである。テロの事実を殆どの島民に伏せている以上、当初から事件に関わっている人間にそのまま作業を行わせた方が効率的だからだ。 依頼を受けた波留は粛々と作業を進めていた。レッドの記憶を復元するための解析プログラムの準備は3日で完了し、それを実行した。 波留の技量をもってしても、その全てがすんなりと進行した訳ではない。自意識を消滅させてでも機密を守ろうとしたレッドの執念は、そう言う面でも波留に立ち塞がった事になる。それでも彼は、その困難に対してどうにか辻褄を合わせた。この案件に対して3日で次のステップを踏むに至る事が出来るだけのメタルダイバーは、彼を他において居ないだろう。 そして彼は記憶の断片から、遂にある事実を突き止めた。暗号化されたレッドの記憶を解析し、そこから独りの個人名を発掘したのだ。 苦闘した末に波留が手中に収めたのは、その名前のみだった。その点においてはレッドの執念が、最高ランクのメタルダイバーを向こうに回しても、明らかに勝っている。 その上に、その名がレッドにとって何処まで重要な記憶だったのかは、一切の謎のままである。今回の事件の関係者などではなく、レッドが単に何処かで見かけた人名と言う可能性も現状では否定は出来ないのだ。 それでも波留は、唯一掴んだその名を調べ上げた。手掛かりがそれしかない以上、それを突き詰めてゆく他に手段はない。 その結果、その人物は「気象分子協会の元メンバー」である事実が浮かび上がっていた。 |