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料理が完全に消費され尽くされる頃――その大半は波留に拠るが――に、再び秘書が食堂に来訪してきた。 特別に、主たる円が彼女を呼び付けた訳ではない。見計らったように入室し、空になった皿を下げていったのだ。先程波留の部屋を訪れた時同様、見事なタイミングだった。もしかしたら今回は、事前に円と入室時間の取り決めがあったのかもしれないが、その場合は波留の食事ペースを読み切っていたふたりに対してやはり感嘆の念を抱くべきだろう。 「美味しい食事をありがとうございました」 皿を下げられる傍らに、波留はそう言って向かいの円に対して頭を下げた。彼としては合わせてこの秘書にも礼の言葉を述べたつもりなのだが、その秘書は軽く目礼を寄越したのみである。相変わらずの態度だった。 「あなたにそう仰って頂けると、ホストとしては嬉しい限りです」 代わりに円が微笑んで答えを返していた。 それから彼の方に回り込んで皿を片付けてゆく秘書をちらりと見るが、特にそれ以上の事はしない。主として、波留への態度を咎めるつもりはない様子だった。必ずしも無礼な態度を取っている訳ではないのだから、当然と言えばそれまでである。 「いくらかの酒も御用意出来ますが、お疲れでなければいかがですか?」 「それは――」 円からのその申し出に、波留は口篭る。軽く眉を寄せた。即答出来なかったのは、彼に自重が働いたからである。その自重が、彼の本心を捻じ伏せていた。 「…御迷惑では?」 結果的に波留は押さえ気味の声を用い、そう訊いていた。食事を御馳走になった上に酒まで振る舞われるとは、図々しいのではないだろうかと思うのだ。特に、傍に立っている秘書の態度を思うと、彼の中ではその遠慮が増幅されてゆく――元来の酒飲みの自分を抑えようとしていた。 「いえいえ…」 波留の態度に、円は苦笑気味に否定した。首を横に振る。 そして彼は、腰を浮かせた。軽く身を乗り出し、向かいの席の波留に顔を近付ける。口許に手を添え、声を潜めてまるで囁くような声で言い出していた。 「――ここであなたが頷いて下さると、私としても飲む口実が出来る訳でして」 「…成程」 波留は思わず口許に手を当てて笑う。どうやら、お互い酒好きなのだろう――その気持ちを共有出来るのならば。 顔を上げると、にやりと笑っている円の瞳が近くにある。彼らはおかしそうな顔をして、喉の奥で笑った。 そのふたりの傍らには、皿を全て手の中に収めた秘書が静かに立っている。彼女は相変わらず無感動な表情を保ち続けていた。 ・ ・ それから円は、秘書に対して適当に酒を見繕って持ってくるように依頼していた。――あくまでも「依頼」であり「命令」とは感じられない態度なのは、僕の贔屓目だろうかと波留は思う。 主に対して秘書は、特に反駁しない。内心はどうあれ、彼女は主の指示に従う旨を言い残し、腕の中の空皿と共に退室してゆく。 「――さて」 円は広くなったテーブルの上で両手を組んだ。白いテーブルクロスは、新たな汚れがつくような憂き目には遭っていない。綺麗に張り詰めた白い布の上に、彼の黒いシャツの腕が伸びた。 「これからめでたく酒が飲める訳ですが、お互い酒が回る前に、伺う事は伺っておきましょうか」 彼は柔和な微笑みを浮かべたまま、波留に対してそう告げた。しかし、その瞳は何処か真面目だった。そして大きな両手を顔の前で組み替える。 「…そうですね」 持ちかけられた、波留は頷いた。彼の口許から笑みが消える。今までとは打って変わって、真剣そうな表情になった。度合いは違えども、円と同様の態度である。 これは明日に回しても良かったが、早いうちにこなしておくに越した事はない――そもそも自分はそのために、はるばるここまで来たのである。 溜息をつく。そして隣の席に視線を落とす。そこには彼が持ち込んだボストンバックが鎮座していた。 波留はその表面に手を伸ばす。前面にあるファスナーを摘み上げ、引いた。 中身の殆どは、部屋に置いてきている。だからバッグの容量は余っていた。彼は中に手を突っ込み、現在占めていたものを取り出す。 彼が掴み出した物は、紙の束だった。 それはふたつに折り畳まれていたものの、紙の枚数はかなり多いために軽く折り目がついた状態のままだった。一端をクリップで留められているために、ばらける事もなかった。 向かい側の円は、その様子を眺めている。そんな彼に、波留は無言で紙の束を手渡してきた。その表情は硬い。 渡された方は一言断りを入れてから、その束の表紙を見る。そこに記載された文面が目に入ると、すぐに彼は顔を顰めていた。 そのタイトルが表していたのは、人工島の電理研付属メディカルセンターにおける2061年10月に勃発したテロの報告だった。 そしてそのテロとは現在の人工島において緘口令と報道規制が敷かれている事件であり、必然的にその報告書も門外不出であるはずだった。 |