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テーブルに用意されている椅子は6脚だった。それだけの椅子が収まる程度の広さのテーブルには白いテーブルクロスが敷かれている。 その上に並べられているのは大皿料理が数種類である。日本人には馴染みがあるような麻婆豆腐やそれに類する炒め物が香辛料に色付き、良い香りを醸し出す湯気を立てていた。 女性秘書は完璧な作法を保ったまま、一旦ここから退席していた。そして先客にしてこの家のホストである人物が、席を立って波留を出迎えて来た。 客人が微笑んで入室してきたならば、このホストも笑顔である。彼が何時も着ている黒いコートは流石に現在は外している。しかし下に着ているベストもハイネックのシャツもやはり黒地だったため、印象は然程変化していない。 彼は3列に並ぶ座席の中央に着いており、波留にはその向かい側の席を勧めていた。実際にその席に対応するように取り皿や箸が置かれており、その傍らには一人前のうどんめいた料理が丼に入れられている。 そうお膳立てされている以上、波留は素直にその席に着いた。許可を貰いつつ、肩に提げたバッグはその隣の席に置く。 日本語での一通りの挨拶を経て、波留は改めて料理を見回す。香辛料が彼の食欲を引き立てる事もあり、両手を合わせて一礼した。 「――それでは、早速頂きます」 「どうぞ。日本の方に合う味かは判りませんが…」 「郷に入れば郷に従えです。合わせましょう」 微笑を浮かべたままそう言った波留に、ジェニー・円は相好を崩していた。波留としてはその台詞に含まれる本気と冗談の成分は半々だったつもりなのだが、どうやら円にとっては冗談の方が勝ったらしい。 ・ ・ 大皿からいくつか料理を摘みつつ食してゆく波留だったが、紅く染まった料理はとても味わい深いものだった。効いている香辛料も辛さ一辺倒ではない。確かに日本人向けでは言いかねる味付けと言う気もしないでもなかったが、波留にとっては許容範囲だった。 逆に、一人前として出されているうどんのような汁物料理の味付けは薄く、日本人好みと言えた。 円からの説明に拠ると、この地域は四川料理の地域である。と同時に、更なる奥地に進めば岩山に至り、そこではチベット文化圏が広がっている。長年の戦闘状態から互いの住民が移動し、それに伴いふたつの文化も混在してきている、だから食事も双方のものが準備可能であり、それが受け容れられている――との事だった。 空腹と言う事もあり、波留の食は進む。後は寝るだけの時間帯だと言うのに、この1日分を取り返そうとするかのように箸を進めていた。 その客人の様子に、ホストである円は微笑ましいものを見るような顔をしている。彼の手元の皿にも幾許かの料理は収まっているのだが、波留の取る量と比較すると格段に少ない。 波留がその理由を怪訝そうに訊くと、円は微笑を讃えたまま応えていた。 「私は全身義体ですからな。本来ならば、生身の方々が食するものを摂る必然性はないのですよ。あなた方にとっては生きるために必要なものでも、我々にとっては嗜好品に過ぎないのですから」 その声に、波留は気付いたように表情を変化させる。手元の箸が止まっていた。 「全身義体でも味覚は付与出来ます。私はこの村で農業指導をしている以上、その作物の味を確認する必要があります。だから、いつも少量だけ頂いているのです」 その台詞の終わり頃には、彼は取り皿にある炒め物を箸で摘み上げていた。香辛料と油分を含んだその青菜を彼は口に運ぶ。そして、注意深く味わうようにゆっくりと噛み締めていた。 波留は箸を止めたまま、向かい側の席の人間の行為をじっと見ている。その口許からは笑みが消えていた。互いに状況と事情が違うと言うのに食を進めるには、どうにも気まずい感がしたからだった。 「…ああ、お気遣いなく。あなたがこの料理を楽しそうに味わって下さるのを眺めているのは、楽しい事ですから」 そこで円は箸を下ろし、止める。彼の手元の白い皿にはもう料理はなく、紅い跡だけが残されていた。 そして、彼は少しの笑みと共に、こう言った。 「――料理や食事とは、そう言うものでしょう?」 それはとても静かで穏やかな台詞だった。静謐な室内の空気にゆっくりと沁み行ってゆく。 「…確かに、そうですね」 一定の沈黙の後に波留はかぶりを振り、俯く。そう言いつつも、口許に笑みを浮かべていた。 確かに「そう言うもの」だと、彼は心底から思ったのだ。 料理を作る理由の中には「誰かに食べて貰いたい」と言う気持ちがある。自分が関わった料理を、誰かが喜んで食べていたなら、その様子に直面出来たなら――とても心が和むだろう。 この時点で彼は、ようやくこのジェニー・円との接点らしきものを見出した気がしていた。やはり食事とは人間にとって根源的な行為であるが故に、理解し合うためには有効な手段らしい。食文化とはかくも偉大なものであると、感じ入る。 |