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どちらにせよ、波留と秘書の会話はこの時点で途切れた。遠慮した波留の態度をこの秘書は鮮やかに交わしてしまったのだから、これ以上の繰り返しは客として厭味である。しかし、このまま黙り込むのも性に合わない――波留はそう思い、視線を廊下に巡らせた。 すると、そこにあった扉が目に留まる。そこは特にプレート表示が掲げられている訳ではない部屋で、波留は何気なく訊いた。 「――そちらの部屋は?」 その問いに、秘書は一旦足を止めていた。唐突な停止に、後ろを追っていた波留は一瞬慌てた。その場で足踏みするように、制止する。 秘書はそんな波留には気を留めず、ちらりと横目で扉を見やる。問われた部屋を確認するような態度だった。 やがて、立ち止まったまま彼女は口を開いた。後ろの波留には背中を向けたまま、言う。 「旧式ではありますが、研究用の端末があります」 もたらされた答えに、波留は思わず首を傾げていた。またしても彼が理解していた現状とは一致しない答えが返って来ている。だから、彼はやはり素直に質問していた。 「…この地域はメタルに接続出来ない環境ではなかったのですか?それとも有線ならば可能なのですか?」 「スタンドアロン端末です。農場で取得したデータの分析に使用するのならば、メタルへの接続は必須ではありません」 波留の呈した疑問に対し、秘書は静かに言葉を返した。それは事実の羅列ではあるが、波留の疑問への直接的な返答ではない。 返答を寄越した後、秘書はゆっくりと歩みを再開した。彼女にとっては、これこそが「答え」のつもりらしい。波留も今までの間隔を維持しつつ、その背中を追う。会話は再び途切れたものの彼はそれを良い事に、考えを進めていた つまり、その研究室に設置されている端末のサーバは、この室内で完結している。ネットワーク回線は一切開かれておらず、外部のメタルへの接続は成されていない。あくまでもローカルで利用するサーバと言う事になる。用途がデータ解析などの研究のみならば、それで事足りるだろう。 むしろ外部への情報漏洩の危険性が全くないのだから、無法の地域としてはそうあるべきなのかもしれない。セキュリティを確保する一番の手段は、そもそも外部と接続しない環境の構築なのだから。これは、それ程意外な手法ではない。むしろ一昔前のネットワーク時代から継承されている常識的な措置と言えた。 ――考えがそこに至ると、波留の心中にはある施設の概要が連想されてきていた。 それは、あの動乱の7月に、人工島のみならず世界中を危機に陥れた気象分子プラントと呼称された施設群だった。 あのプラント群――並びにそれらを統括していた第8プラントは、当初はスタンドアロンとして運用されていた。 波留達は、そのメタルに無理矢理に外部への接続ポイントを開いた後にハッキングを掛け、支配下に置いている。しかし、そのメタルはスタンドアロンである以上に特異な構造となっていた――。 しかし、それは過去の話である。 気象分子計画は、甚大な被害を引き起こした末に、完全に頓挫した。あの計画に携わった全ての人員に対して解散措置が取られている。最早計画を再開出来るだけのリソースは失われているはずだった。 それに科学者ならば、二度はないはずだった。あの時の会合時はいざ知らず、事が起こり終わってしまった今では明確なデータと論拠とが示されたのだから、仮にも科学者ならばそれを認めるべきだった。 ――このメタルを構築した奴は、余程他人を信用出来なかったんだな。 あのハッキングダイブの際に波留と共に挑んだフジワラアユムの述懐が、それである。 しかし今回とは、同じ結論を見出しているようでいて、その過程は全く違う。 そもそもこの地域自体にメタルの接続ポイントが存在しない。そしてこの状況では、敢えてそのポイントを新設するだけのメリットはない。だからその端末は、スタンドアロン環境のままなのだ――波留はそう考えた。その推論が事実を言い当てているはずだった。 なのに、心の何処かに引っ掛かりを覚えるのは、何故なのだろう? あの事件の際には、確かに波留は「彼」とは敵対関係にあった。しかしそれは互いの理解が足りないだけだった。対立する事柄があり、それに互いが抱える正義をぶつけ合っただけに過ぎない。 しかし、それが終わってしまったのだから、もうわだかまりはない――彼の心中ではそう結論付けたまま、8月以降を迎えたはずだった。 その後、あまり会話を交わしていない。相手が人工島を去ってしまったのだから、当然ではある。だから、これから迎える会食が、その理解のための助けになるだろうか? 「――波留様」 そこに、不意に秘書の声がした。それに波留は我に帰る。 顔を上げると、秘書が立ち止まっていた。そこは通路の突き当たりであり、彼女はその扉の傍らに立っている。片手で扉を指し示し、波留に対して一礼をする。 相変わらずその扉にはプレートの類は存在しない。しかし秘書の様子からして、どうやら食堂に到着したらしい。波留はそう受け止めた。 ふたりの歩みが止まると、途端に通路に沈黙が降りる。廊下の隅に設置されたラジエーターが輻射熱で空気を震わせる微かな音が、波留の耳に届いた。 彼には、肩に提げられているボストンバッグが気になった。ずり落ちそうな心地がして、両手でストラップを持って軽く位置を整える。 そうして身じろぎした事でシャツが乱れたような気もして、今度は襟を掴んで引っ張ってみる。前髪が目元に掛かり、鬱陶しさを覚えた。 そんな彼の目の前では、秘書がノックの後に扉を開けている。扉の隙間から垣間見える室内からは、応答の声が聴こえてきた。それは、波留の脳内にも覚えがある声ではある。 「――失礼します」 波留はその顔に微笑みを浮かべ、その扉をくぐっていた。 |