これは正式なマナーを伴う会食ではないが、同席者は波留にとって気の置けない人間ではない。敵対者ではないとは言え、現状では一線を引いて礼儀を保つ事は必要だろうと思っている。そしてここは屋内なのだ。
 以上のような理由から、波留は流石にコートは脱ぐ事にした。室内にあるクローゼットに、ハンガーに掛けてしまいこむ。
 しかし、ずっと着ていた薄手の長袖シャツでは多少寒気を感じる。部屋の片隅には暖房用のラジエーターから熱が放射されているのだが、それにも限界がある。冬の初めのこの地域は、下手をすると凍死しかねない気温まで低下する環境である。暖房の備えもあるのだろうが、衣服での対策も併用すべきだった。
 その結果、波留は一旦廊下に秘書を待たせ、上着を替えた。ボストンバッグの中に収まっていた厚手のシャツを出し、それに着替えていた。
 上着を替えただけなのだから、然程時間は浪費していない。秘書は静かに数分待った後、扉が開いて波留が出てくるのを視界に入れた。
 彼女は、微笑を浮かべて会釈してくる彼に無言で一礼を返す。その際に、黒髪の青年が相変わらずボストンバッグを携えている事に気付いていた。
 しかし彼女は、態度としては一切それに気を留めた様子を見せなかった。波留の姿に全く興味を持たなかったように、そのまま一歩足を進めて案内を再開している。客人も特に弁解を加える事もせずに、彼女の後ろをついていった。
 部屋から出た後の廊下でも暖房が効いているらしく、厚手の長袖ならば快適な気温となっていた。
 廊下の隅でも室内同様に放熱用のラジエーターが起動しており、波留はそれに物珍しそうな視線を落としていた。耳を澄ませるとラジエーターの周辺では熱せられた空気が微かな音を立てているのに気付くだろうが、それは彼らふたりの大きくはない足音に掻き消されている。
「――この地域の食材は、どのようなものがあるのですか?」
 ここは大きな屋敷ではないのだから、歩く廊下も長くはない。だから無言でも間が持たない距離ではないはずだったが、波留は先導者の背中にそのような質問を投げかけていた。
 彼としては、食材には興味を惹かれるものがある。彼自身料理を嗜むのだし、50年前の時点でも日本国外に出向く事もままあった。外国を訪問してまず直面する文化と言えば、食事である。そもそも彼は好奇心旺盛な人間なのだから、そこを知りたくなるのは当然だった。
「食肉としてはヤクや鶏が通常です。そして最近は、この村で収穫出来た野菜類を用いています」
 そんな波留に対し、秘書は振り返らない。淡々と返答を寄越していた。
 その応えに、波留は思わず声を上げていた。彼にとって感情を揺さぶられたのは、日本人があまり口にする事はないヤクではない。その後に続いた文章だった。
「収穫出来たのですか」
 感嘆の声を上げる波留の脳裏には、夕陽が溶けたような耕作地の風景が浮かんでいた。確かにあの畑には緑がちらついていた。しかし、それには頼りない印象しかない。どうにか大地には生命が息づいているようだったが、収穫に至るまでに育っていたとは予想外だった。
 ――もしかしたらあの時目にしたものは、1回収穫が終わった後に新たに植えられた作物だったのかもしれない。波留は、そのように自らの考えに修正を加える。しかし、あの細い苗の印象はなかなか払拭されなかった。
「ええ…しかし、農場の開発を開始してからまだ2ヶ月ですし、これから冬を迎えますので、現状では少量の収穫です」
 秘書は歩みを止めない。一定の足音と淡々とした声色のまま、返答していた。
 その返答に、波留は何処か申し訳なさを覚えていた。それをそのまま言葉にする。声の調子にも感情が表れていた。
「そんな貴重な作物を、僕に出して頂けるのですか?」
「この村で収穫出来ていなくとも、あなたを迎えた都市の市場での購入は可能です。我々に、冬を越せるだけの蓄えはあります。それに、冬を迎えてもビニールハウスでの開発は続行するとの事です」
 波留の問いに対し、秘書の返答はやはり一定の調子のままだった。自分達の計画は予定通りであり、その成果を客人に放出しても全く困らない――言外にそう言いたげだった。
 この秘書は一貫して礼儀正しいが、相手からの反論や遠慮を受け付けない態度とも表現出来る。
 その思いに至った時、不意に波留の脳裏には黒髪のアンドロイドの姿が浮かんでいた。彼を今も「マスター」と呼んで仕えるその公的アンドロイドの言動にも類似する点があると感じたからだ。
 唯一絶対の相違点を挙げるならば、この人間の秘書の顔に微笑みが浮かぶ事は殆どない事だった。少なくとも波留に対してはそうだった。秘書としてその態度はどうなのだろうと思わないでもないが、逆にこの折り目正しい態度こそが秘書として相応しいとも言えるかもしれない。
 
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