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波留はこの大陸を延々と西に走破する勢いで移動を続けていたが、この村でその旅を終えた格好になる。追い続けた太陽はここで遂に地平に沈む。そうなると、夜闇はすぐに世界を侵食していった。 小村はとっぷりと闇に暮れ、徐々に空気は冷えてゆく。家々の窓からは僅かに光が漏れてはいたが、街灯らしきものは一切存在しなかった。メインストリートすら舗装されていないような環境なのだから、それも当然ではあった。 彼の逗留先として提供されたのは、ジェニー・円とその秘書が定住している住居の一室である。 荒野のど真ん中に出現したような人口30名程度の村において、余分な住居は存在しない。だから、契約を交わした主従関係以外の何物もないはずの円とその秘書も、一軒家に同居する選択をしていた。 しかしここは、他の村人の住居よりは多少は広い間取りの家である。そして住んでいる人員も他の家よりも格段に少ないのだから、劣悪な環境と言う訳ではない。ともかく、独りの旅人に提供出来るだけの部屋は余っていた。 この家屋に隣接する庭のような場所には、一際大きな樹木がそびえていた。一見して立派な木が敷地内に存在するから、寄り添う住居も立派に見えるのかもしれない。 表皮に寄る皺や節くれ立って分かれてゆく枝からは、相当な古木であると類推させる。しかしその分かれた枝の何処からも、新芽や葉らしきものは一切垣間見えなかった。 現在が11月であり既に冬篭りの準備をしているべき時期とは言え、この古木からは生命の色が全く感じ取れない。逆に、幹が割れたり傷付いたり腐り始めていたりと言った、目に見えた死の色も表れていない。只そこにそびえ立ち、暗がりの中に細い枝を先端まで広げて月明かりを浴びている。 都市圏の日常に当て嵌めると、今はまだ人間が闊歩して然るべき時間帯である。しかしこの村では静けさが支配していた。家から一歩外に出てしまえば月明かりを頼りに動くしかないのだから、当然の話ではある。そして自宅に戻った彼らは早急に休んでしまう様子だった。 提供された一室に波留は落ち着いていた。とりあえず手荷物のボストンバッグを寝台に下ろし、硬くなっていた身体で伸びを打つ。そうすると、丸1日車中の人だったのだから、筋肉のあちこちが音を立てた。 彼はそれに溜息をつき、肩を回す。そのまま、彼の知識にある柔軟体操をこの場で実践して行った。手足を曲げて伸ばし、ストレッチを加えてゆく。 横目に見える寝台は、固そうな印象を受ける。しかし、彼が住む人工島と比較するのは愚かな行為であるとは判っていた。横になって休む事が出来るのだから、充分な睡眠を確保すれば自ずと疲れも取れるだろう――そう納得しようとしていた。 そのように心中に纏まりをつけた頃、部屋の扉をノックして秘書が訪れていた。 まるで波留の思考を読んだかのような絶妙なタイミングである。無論、メタルに一切接続出来ないこの環境で、そんな行為は出来る訳がない。仮に接続出来たにせよ、波留は相当な実力を持つメタルダイバーである。外部からのハッキングに対する備えは充分に凝らしていた。 とすれば、この訪問は秘書としての技量――客人を部屋に案内し、その客人が部屋で落ち着くまでの時間を計算した――に拠るものなのだろう。本当に有能な人物なのだと、彼はその秘書に内心舌を巻いた。それは、彼女に対して抱いた何度目かの感嘆の念だった。 「――お食事の用意が出来ました。お口に合うかは判りませんが、宜しければ召し上がって下さい」 深々と頭を下げつつ、秘書はそのような事を申し出ていた。その台詞に、波留は急に空腹を覚える。自身の事だと言うのに、全く忘れていた。 「…そう言えば、朝に食べたきりでしたよ」 彼は苦笑を浮かべ、そう言った。腹部を掌でそっと撫でると、微妙に腹が鳴った心地がする。その印象に波留は更に感情を刺激され、含み笑いを浮かべていた。 波留が今日摂った食事と言えば、朝方に列車からバスへのトランジット時に屋台で粥を食べたきりだった。健康体である成人男性の1日の食事にしてはあまりにも少量なのだが、長距離移動とそれに伴う慣れない地での緊張感が、空腹を紛らわせてしまっていたらしい。 「ありがたく頂きます」 「それではこちらへ」 かくして交渉は成立した。照れ笑いを浮かべて会釈する波留に対し、秘書は一歩引き、扉の向こうを指し示す。 波留はそれに改めて頷いた。どうやらこの部屋に食事を持ってくるのではなく、食堂にでも案内するつもりなのだろう。その方が煩雑ではなくて助かると波留は思った。 「この夕食には、ミスター円が御一緒したいとの事です」 そこに秘書は付け加えてくる。波留はその台詞に、顔を上げた。 それは、そこまで意外な申し出と言う訳ではない。遠方からの客人を会食形式でもてなそうとするのは、ホストとして有り触れた態度である。客人側としても無料で寝床を借りる以上、土産話のひとつやふたつは提供すべきだった。 波留にもその点は理解出来る。が、別の一点において推測出来ていない事があった。それを秘書に質問する。 「…あなたはその会食に同席なさらないのですか?」 「私はミスター円の秘書に過ぎません」 即答だった。無表情に、その女性はそう答えていた。 同居状態であっても、雇い主とその秘書と言う線引きはしっかりとなされている。少なくとも彼女自身は自重しているらしい。 ――料理を作るのは彼女なのだろうか。それともジェニー・円当人なのだろうか? 波留には、そのどちらの想像も可能であり、逆に両方ともがしっくり来ない構図だった。 夢想が嵌まるべき所に嵌まり込んで来ないのは、そのふたりとは親交を深めていないからだろうと、彼は思う。同じく人工島の人間だった過去を持ち、この小村では同じく異邦人であるにせよ、現在の関係は「知人」に過ぎない。 そこは、これからの会食なり滞在期間なりで埋めて行けばいい。折角同じ屋根の下に厄介になるのだから、良い関係を築くに越した事はないし、彼は打算なしにもそう在りたいと思っていた。 |