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秘書に促されて車から降りた波留は、そのような痛いまでの好奇と疑念を合い混ぜにした視線を全身に受ける羽目に陥っていた。 中国大陸入りして目にしてきた光景の大半は、生命の息吹が感じられないものばかりだった。それがこの小村に来てからは、灰色と褐色の中にも微かながら緑が点在していた。彼は車窓からそれを眺めて、率直な感動を覚えていた。 そんな彼に、秘書が車から降りるように告げたのだ。 荒野を駆け抜けていた今までとは違い、人間が定住している村に到着したのだから、安全は確保されているのだろう。しかし、その村において、あくまでも自分は部外者である。結束が固いだろう小村の人々は警戒するだろうに――波留はそう危惧しつつも外に出たのだが、彼の予想は殆ど違えていないのが現状だった。 突き刺さる視線を肌に感じつつ、居心地が悪い波留は彼を引き摺り出した格好の秘書に救いを求めた。曖昧な笑みを浮かべ、彼女の横顔を見やる。所在無げに半開きのドアを押さえたまま、閉める機会をも逸していた。 が、当の秘書は横目で波留を一瞥して見せただけだった。そのまま綺麗な立ち姿のまま歩みを進め、車の前方へと回り込んでゆく。 この道路は車が走れるように固められてはいるものの、やはり舗装はされていない剥き出しの土のままだった。土埃が風に浮き上がる大地であっても、彼女はまるで滑るように美しい姿勢のまま歩いて行った。 カーキ色のコートの裾に土煙を纏わりつかせつつもゆっくりとした足取りを保ったまま、秘書は車の前方に立つ。そして、耕作地に対して静かに頭を下げた。両手は膝の前に合わせ、伏し目がちに一礼を行う。 その時には、一段高い場所となっている耕作地の人々が、不意に左右に分かれていた。彼らは後ろを振り向き、まるで奥に居た人間に道を譲るかのような態度である。そして実際に彼らを掻き分け、独りの人物が姿を見せた。 波留はその光景を視界に入れていた。瞳が認識したその姿に、思わず見開かれる自らの目を意識した。 不意に強い風が吹き抜けてゆくと、揺られて音を立てる細い作物に紛れ、一際高く土煙が舞い上がる。人々はその直撃を恐れ、反射的に顔で手を覆っていた。 しかし波留はそれをしていなかった。身体がその反射を忘れてしまったかのように、立ち尽くしていた。顔の脇では垂らしたままの髪がたなびき、結ばれた後ろ髪も大きく揺れているのを感じる。前髪も風に揺れ、視界を遮っていた。 彼よりも一段高い場所に立っている男は、夕闇に至りつつある紅い空を背後にしている。暮れゆく大きな太陽が、その黒いコートに複雑な陰影を作り出していた。このような小村の耕作地であっても、その人物の格好は変化していないらしい――それこそ、人工島を謳歌していた時代から。 「――人工島から遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。波留真理さん」 そんな日本語が、その人物の口から波留に対して放たれていた。彼は顔に薄い微笑みを浮かべてはいるが、何処か感情が乏しい印象でもある。しかしその声自体は温和なのだから、感情を害している訳ではないのだろう。 彼は黒いコートの裾を閃かせつつ、ゆっくりと土手を降りてくる。両手を後ろに組んだままでもバランスを崩さずに傾斜を下るのだから、身体能力はかなり高いと類推出来た。 耕作地に居る他の人々は、彼の動作を遠巻きに見ているだけである。彼らは日本語を解しておらず、一体何を言っているのか理解出来ないのだろう。そんな状況を把握出来ない以上、動くつもりもないのだろう。 コートから覗く黒い靴が、傾斜の土を靴底で軽く削り取っている。それによって巻き起こる土埃を纏わりつかせつつ、彼は車道に降り立っていた。 着地の際に発生した軽い音に、波留は我に帰った。僅かに身じろぎする。 が、すぐにその顔には笑みが浮かんでいた。しっかりと後部座席のドアを閉めた後、小走りに前方へと向かう。秘書のコースをトレースするように、車のボンネット方面へと回り込んでいた。 その頃には黒コートの男も車の前方まで歩みを進めている。一礼したまま立っている秘書を傍らにし、まるで波留の到着を待ち受けているかのような態度を示していた。 鷹揚に立つ彼に、追い付いた波留はぺこりと会釈をした。そのまま右手を差し出そうとしたが、長旅を経ての状態が気になったのか、まず自らの胸元にその掌を擦り付けた。そこに含んだ汗や付着した微細な土が、コートの青色を僅かに曇らせる。 それから、改めて波留は右手を差し伸べていた。人好きのするいつもの爽やかな笑顔を浮かべ、声の調子もそれに揃える。 「お久し振りです。ジェニー・円さん」 「こちらこそ」 黒髪の青年の挨拶に、名を呼ばれた壮年の男は微笑み返していた。差し伸べられたその手を、自らのそれに重ねる。体格に比例して、波留よりも厳つい印象を持つ手で強く握り締めていた。そうやって繋いだ手を軽く振り、握手する。 あたかも旧交を深め合うかのような態度を取り合う男ふたりを眼前にしたまま、その秘書は伏し目がちに沈黙を保っている。夕陽の赤を顔に浴びたまま、彼女は全くの無表情だった。 そんな彼らを更に、傍らの運転手は所在無げに見やっている。彼は彼で運転手である以上、乗客が再び乗り直すなり、或いは荷物を下ろして別行動でも取ってくれない限り、何もする事がない。手持ち無沙汰な状態で立ち尽くしているのだろう。 耕作地に居る農民達も、彼の態度とさして変わらない。明らかな部外者を招き入れているふたりの様子を窺っていた。この村にとってはそのふたりもかつては異邦人であったはずだが、波留の姿を認める以前に見せたふたりへの態度からは、一定の尊敬と信頼を勝ち得ている印象である。だから、そのふたりの波留への態度を見定めようとしている様子だった。 夕闇が辺りを次第に満たしてゆく。そんな中、盛り土のあちこちから生えている細い緑が空気の流れを受けたのか、しなるように揺れた。 |