太陽が傾いていても、陽光を遮るようなものは一切存在しない荒野においては、なかなか暗くならない。それでも空の彼方に目を凝らせば、薄明かりを保持した丸い天体を垣間見る事も出来た。しかし月と太陽とが光度を逆転するには、もう少し時間が掛かりそうだった。 涸れた大地には藪すら生えておらず、かろうじて残された轍を目印として走り抜けている。道らしい道は全く存在しない。現在地は、車のダッシュボードに設置されているGPSでどうにか把握している現状らしい。まるで荒野を舞台としたラリーレースのようである。 しかし、この大陸には無線メタルは存在しないはずである。ならば静止衛星と電波を原始的にやり取りするような、旧型なのだろうかと波留は目星をつけた。 その時、彼の額に痛みが走った。 思わず右手を額に添え、眉を寄せる。鈍い痛みは表層ではなく内部に伝わっており、自らの拍動と連動していた。この大陸を訪れて以来、度々見舞われている頭痛である。長距離移動で疲れは溜まってきているだろうし、その移動過程はお世辞にも乗り心地が良いとは言えないものばかりだ。路面の凹凸にここまで翻弄され続けていては、脳も痛みを訴えるだろう――彼の中ではそう結論付けられていた。 「――波留様。どうかなさいましたか?」 ミラー越しに秘書が話しかけてくる。どうやら彼女は背後の気配の変化に気付いたらしい。直に見ている訳ではなくとも、その程度ならば把握出来るのだろう。それは彼女が有能な秘書であると同時に、元来からそれだけの気配りが備わっているからでもあるのだろう。 「いえ…大した事ではありません」 苦笑を浮かべつつ、波留は顔を上げた。ミラーの向こうに顔を見せている秘書に視線を向ける。 今も彼の額の内部で鈍痛がじんわりと響いてはいるが、酷いものではない。大仰に我慢しようとしなくとも大丈夫なレベルである。その発生原因も彼なりに推測出来ているため、大事にはしたくはなかった。 そんな彼を、秘書はミラー越しに一瞥する。額をそっと押さえている波留を視界に入れた後、口を開いた。 「メタルのノイズでも拾いましたか?」 「…え?」 思わず波留は怪訝そうな声を上げていた。秘書のその台詞は、彼の予測の範疇になかったからだ。 更には彼女は、波留が抱える頭痛の原因に推測を加えている。波留は一言も「頭痛がする」とは口に出していないのだが、頭を押さえて顔をしかめていたなら第三者も事情を推し量る事は可能だろう。 しかし、波留の予測の外だったのは、それではない。頭痛の原因として述べられた事が、彼にとっては全く思い当たっていなかったのだ。 「…メタルですか?」 「はい」 疑問を抱いている波留は、言葉そのままに問い返す。すると、秘書は事も無げに頷いていた。どうやら言い間違いでも勘違いでもないらしい。互いに言いたい事は通じている様子だった。 ならば、波留としてはこの目の前の女性の言い分がますます判らなくなる。だから、彼は額から手を離す。秘書にその手を向け、彼が抱えている疑問点を整理しつつ、質問を加えていた。 「この付近には無線メタルは普及していないと訊いていましたが…?」 それが、この大陸の大前提であるはずだった。 波留は昨日、航空路線で北京入りしてから、空港の職員にその旨を訊いていた。そしてそれはこの大陸において常識となっていたはずだった。前世紀から着実に発展を遂げ、今世紀においては戦禍を避ける事に成功している南部の大都市を除き、この国においてはネットワーク回線とは有線メタルのみを指す――波留はそう理解していた。 彼は人工島からやって来た人間であり、メタルに慣れ親しんでいる。そしてそんな人工島住民の中でもメタルダイバーと言う、メタルを生業とする職業に就いていた。そんな人間にとって、メタルへの接続方法の熟知は死活問題となる。そこで事前に今回の旅においてメタルのサポートはほぼ望めないと理解していたはずだったが、この秘書が言うにはそうとは限らないのだろうか?――その疑問が彼の中に湧き上がってきていた。 黒髪の青年の顔からは、そう言った疑問の表情が手に取るように伝わってくる。第三者たる女性秘書も、相対していてそれが良く判った事だろう。 しかし、波留の変化を見て取っても、当の彼女の表情は変化しない。相変わらず表情を浮かべないまま、淡々と言葉を紡ぎ出す。 「普及はしておりません。この地域には、恒久的にメタルのインフラ整備を担当する組織が存在しませんから」 それは、波留の中に収まっていた「この大陸における常識」を肯定する台詞だった。 「メタルの管理団体」としては電理研が世界的に有名である。人工島に君臨し統治の一端を担っている本社を始めとして、世界各地に支社が展開され、支社を開かなくとも技術者が派遣されている。 或いは電理研から委託を受けた私企業や国家所属の団体が、その地方のメタルを管理する。メタルが有史に出現して以来、その体制が確立されていた。 メタルを維持するならば、何らかの組織が存在していなければならない。メタルの運用には、ソフトウェアとしてのメタル空間のみならず、ハードウェアとしての通信分子の散布や人間へのナノマシンの投与と管理の双方が必要とされるからである。 しかし、秘書の弁に拠ると、この地域にはその手の団体が存在していないらしい。では、無線でメタルに接続出来る訳がないのではないか?頭痛の原因になるような干渉などあり得ないでないのか?――波留は抱えたまま解消されない疑問を、改めて秘書に問い掛けた。 「なら、どうしてメタルに接続出来ると?」 その問いを受けた秘書は、ゆっくりを瞼を伏せていた。夕焼けを頬に当て、沈黙する。 車内は断続的に振動に見舞われている。運転手はわざとやっている訳ではないだろうが、大地に穿たれた様々な痕は深刻なものであるらしかった。 彼女はその振動に短い前髪を揺らしつつ、口を開いた。 「大戦時やそれ以降の局地的な戦闘にて、メタルを利用すべく通信分子を散布した勢力が複数存在したからです。その通信分子が未だに残留している区画が、大陸の各所にあるのです」 波留はその説明に、思わず面食らっていた。それは、彼にとって全くの初耳である。想定していない項目だった。何故なら――と、彼はその疑念の根拠を口に出す。彼はまたしても秘書に問い掛けていた。 「…この国は、電理研の管理下に置かれていないのに?」 その問いに、秘書はゆっくりと瞼を上げた。眼球だけを動かし、後部座席に居る話し相手を一瞥した。ミラー越しではなく、実際の波留を見やった事になる。それはこの車中において初めての事だった。 「そもそも、メタリアル・ネットワークと言う技術はオープンソースです。それもまた、メタルが次世代ネットワークとして全世界に広まった一因でしょう」 僅かに視線を送られている波留は、その言葉に頷いていた。メタルを生業とする人間にとっては、それは基礎知識に値する歴史だった。 彼女の説明に付け加えるならば、利便性とセキュリティの強固さこそが、メタルが当時の電脳ネットワークに取って代わる存在となり得た主因だろう。しかしこの場において、それは本論ではない。 そこまで考えが至った時点で、波留の表情が変化した。何かに思い当たったような顔をして、再び大きく頷く。口許からは小さな溜息が漏れる。 この時点で、彼の中では疑問が解消されていた。そして秘書の説明は続いてきたが、その口述は聴講する青年にとっては自ら行き当たった解答に対する補足に過ぎなかった。 「メタルを利用したい人間がそのインフラを実装するに当たり、電理研を始めとした組織に対して、許可申請は必ずしも行わなくとも良いのです。自分達の範囲で運用すれば良いのですから」 つまりは、この地に電理研の息が掛かった組織が存在しなくとも、各自で勝手に通信分子を散布してしまえばそれでメタルには接続可能となるのである。おそらくは各時代における武装勢力が、自らの支配下でメタルを利用すべく行った事だろう。 では一体何に利用したのか?そう問うたとしても、答えは簡単に推測される。まさか武装勢力が、商品決済や単なるネットサーフィンのために接続環境を整える訳がないだろう――。 「それこそが、久島部長がお持ちだった理念では?」 後部座席で腕を組んで沈黙している波留を見やりつつ、秘書は静かにそう言った。彼女は、波留が既に答えに至り、その先を見据えているのだと理解しているのだろう。 メタルはオープンソースであり、どのような利用をされようとも、その全てに開発元の電理研は関与出来ない。ましてや一開発者がそれらを把握出来る訳もない。彼自身はメタルを安全に利用して貰いたいと思っていたからこそ、人工島のメタルは細かに管理していたのだろう。だから、在りし日の波留に、様々な依頼を持ちかけてきたはずだ。 しかし、その手を離れた島外において、自らの願望を押し付けるつもりはなかっただろう――。 ――彼女の、その指摘の通りではある。波留はそれを否定するつもりはない。 しかし、戦争に――人を殺す方法に、彼の親友が生涯を賭けて開発した技術が用いられるとは。 メタルによる弾道誘導装置や、敵配置などをメタルから受信してそれに基き自らの判断で動く多足型戦車などがすぐに思いつく。それに、メタル自体こそが宣伝戦の舞台となる。敵側の環境をハッキングするためにも、まずメタルに接続出来る環境を整えなくてはならなかっただろう。 最新技術は全て戦争へと導かれてゆくのが歴史の必然ではある。しかし、それにしても釈然としない思いは波留の中に残る。 研究に没頭させてくれる環境を用意してくれるならば、その先に何が待っていようが知った事ではないと思える人種は、技術者には一定の割合が確保されているものだった。しかし波留の中に存在する倫理感はそれを認めなかったし、親友もそうであって欲しいと今更ながら願いたかった。 |