波留真理と言う人物にとって、船内生活は日常の一部である。 船員を職業としている訳ではなかったから、毎日乗船していると言う状況ではない。しかし海洋学を修めその道に進んだ学者として、或いは世界的なダイバーとして、船上とは有り触れた空間だった。 その活動範囲は多岐に渡り、複雑な波を作り出す湾内や荒れた外洋、逆に穏やかな波間と、海が見せる様々な表情に翻弄される船内においても、平然と生活が出来るような身体となっていた。 そのような性質を持ち合わせた彼にとっては、全身に多少振動を感じた程度では安眠を妨げられる事はない。それは、海路ではなく陸路の鉄道網においても同様だった。 乗車する車輌がこの国にしては快適な設備をしつらえていたにせよ、肝心のレールが傷んでいては仕方がない。長距離列車にして停車駅が殆ど存在しない路線のため、運行速度自体はかなりの高速を保っており、そのために伝わる振動も相当なものとなっていた。 それでも、波留はしっかりと睡眠を取る事が出来ていた。遠出による疲れもあるのかもしれないが、人工島からこの大陸に至るまでの航空機内においても熟睡しておきながらまだ眠るのか――彼自身としては、そんな風に感じて苦笑を覚えないでもない。 ともかく、カーテン越しに射し込む白い朝日を瞼の奥に感じつつも、彼は微妙に硬い寝台から身を起こしていた。一応はクリーニングされている感があるシーツに覆われたマットレスがあるのだが、彼としてはスプリングが硬いような気がする。人工島はやはり快適に過ぎる――眠る前に解いていた後ろ髪を掻き上げつつ、彼はそう思う。 起き上がった事で、今まで被っていた毛布が肩から落ちると、途端に冷気が肌に伝わってくる。暖房設備は稼動しているはずだったが、それでも壁際からは11月の朝方の寒気が伝播してきていた。 現在地は緯度から考えるに北京よりは暖かいはずなのだが、それでも常夏の人工島に馴染んだ身体には充分に寒い。冷気に晒されて波留は反射的に毛布を再び肩から被っていた。 何気なくついた呼気が、僅かに白く煙っている。この分では、身嗜みを行うにせよ洗面台の水も相当に冷たそうだと思った。 毛布の中から波留は右手を伸ばす。冷たい室温に晒された指先が急速に冷えてゆく心地がする。しかし彼はその手を窓へと伸ばした。カーテンの端を2本の指で摘み上げ、さっと引いた。 カーテンは窓を覆い尽くして完全に蛇腹を伸ばしており、向こう側まで至っていた。それを一気に引き戻す。 すると朝日の光が室内に射し込み、空気中の埃を反射して光の筋を作り出す。東側を向いている窓らしく、その光は強い。波留は思わず目を細めた。 しかしそのうちに瞳が光量を調節するに至り、彼は窓の向こうを見やる。輝く朝日の前にあるべき光景を眺めようとした。 そこに広がっているのは、荒涼とした大地のみだった。 周辺には建築物らしき存在は何もない。だだっ広い大地を、ひたすらにレールのみが走っている。列車がその上を高速で走り抜け、大地から削り取られていた土埃をその風圧で巻き上げていた。その土煙を帯同させてひた走る。 慢性的に住居不足を抱えている日本や人工島に較べるとせせこましくなく、雄大な光景だと表現する事も出来るかもしれない。しかしそれはこの現状の光景において、強弁としか言いようがなかった。 何故ならば、大地には草も生えていない。たまに節くれだった樹木は屹立しているが、それも葉を落とし枝の容貌も不自然である。どう見ても立ち枯れている印象だった。 高速走行の車窓からの眺めのために判然とはしないが、大地の所々にはひび割れすら走っている。それは列車通過時の振動のみが要因ではないだろう。明らかに、この付近には水と言う物質が存在していない。 中国大陸とは広大であり、元々降雨不足で痩せた大地も多いと訊いていた。50年前や、そもそも波留が生まれる以前からそのような話が慢性的に出回っていたはずだった。それを解消すべく、その時代毎に様々な緑化プロジェクトが立ち上がっては消えていっている。 どうやら現状においても、それらのプロジェクトは結実しなかった様子だ。技術や人員不足や非協力な国家、或いは大戦勃発により事業自体が頓挫したのだろう。そうやって人間達が手をこまねいているうちに、存在していた水も徐々に涸れてゆき、後は砂漠化を迎える他ない大地も広がっているのだろう――。 波留は車窓の光景にそう感じていた。 だからと言って、今の自分に出来る事は何もないとは判っているし、そんな義理もないと思っていた。 そう言う事情で、中国の大気は湿度が低い。波留は喉に引っ掛かりを覚え、軽く咳き込んだ。 車内には、冷たくも乾いた空気が流れてゆく。天井では備え付けの空調機がどうにか稼動しているような音を立てていたが、気休め程度の気温調整しか出来ていなかった。 車窓には立ち枯れた樹木の陰に紛れるように、異質な金属の巨体が垣間見えた。それもやはり奇妙な風貌で朽ち果てていて、稼動する様子は全く見られない。 波留は横目で見ただけなので詳細は判らないが、おそらくは多足型戦車の成れの果てではないかと推測する事は可能だった。 しかし彼には兵器の知識はないため、見ただけではそれが大戦期のものなのか、或いはそれ以降の小競り合いや紛争期に使用されたものなのかの判別は不可能だった。 仮にメタルに接続出来る環境ならば、今の画像を電脳にコピーして検索すれば調査出来たかもしれない。しかし彼が試行してみても、やはりこの付近ではメタルへの接続は通らない。相変わらず環境は全く整えられていないらしかった。現存する大都市である北京ですら有線接続だったのだから、期待するだけ無駄だっただろう。 そんな荒涼とした風景も、高速走行の列車の前では一瞬で流れてゆく。 |