北京国際空港の一角には、メタリアル・ネットワークへの接続ポイントが設けられていた。その場所の壁の一面からは何本かのケーブルが設置されており、そこにある台に自前の携帯端末を載せて接続し利用する施設になっている。 2061年現在、世界各地にメタルは普及しているが、ナノマシンである通信分子を散布する事による無線接続を実現している地域はまだ限られている。通信網の維持にはそれなりの技術力と、それを裏付けるだけの国力を必要とするからである。 メタル開発の最先端を往く電理研と言えども、技術者が地球上の全ての都市に出向している訳でもない。多忙な彼らにそれだけの人的資源の余剰は存在せず、実際問題として一定レベルの治安が確保されていない地域では職員を派遣したり現地雇用を実行はしない。 そう言った様々な事情により、メタルのインフラ整備が間に合わない地域に関しては、有線での接続が確保されていた。前時代の電脳ネットワーク同様に有線ケーブルを端末間や各地に存在するサーバに引いてメタルへの接続を行うのである。 個人用の端末利用については、首筋に接続ソケットを確保している人間や人形遣いはそこから接続しても良い。前時代同様の利用法である。 しかしそれでは自身の電脳を未発達のネットワークに晒す事になる。無線メタルを利用している地域の人々は特にそれを危惧しがちである。 そうなると安全性を確保するために、別に端末を準備してある程度のデータを事前にそちらに移しておき、その端末をメタルに有線接続するパターンもあった。未電脳化者の携帯端末に類似する利用法である。或いは、数十年前のパソコンと同様とも言えるだろう。 波留の場合は、8月における1ヶ月間の未電脳化者時代の際に与えられていた携帯端末を、再電脳化時にも返却していない。 その端末の所持は、電脳化した波留にとっては今までは特に必要性があった訳ではない。しかし彼はメタルダイバーであり、自前の電脳の他に別のメタル領域を確保しておいたならば色々と便利な立場ではあった。再電脳化に至った時点で、彼はメディカルセンターに「メタルダイバーである」事実を把握されていた。だから、端末を回収される事なく、黙認されていた。 或いは、電理研の統括部長代理と公私共に親しい間柄である事も大きな助けとなったのかもしれない。人工島において、電脳化の処置を行うのが電理研付属の施設である以上、彼らにとっては電理研の部長代理とは、現行では最高位の上司なのだから。 そして波留はその携帯端末を、今回の北京入りに持参している。まず、メタルに無線接続可能である人工島の国際空港にて、航空機の待ち時間を用い、自らの電脳からある程度のデータや設定などをこの端末にコピーしていた。自らの電脳の内部データ閲覧のみならばスタンドアロン環境でも可能なのだから、差し当たって外部とやり取りする可能性があるデータ類が端末にダウンロードされていた。 現在、波留はその端末を台に置き、側面の小さなソケットに壁から伸びる有線ケーブルを差し込んでいる。立ち上がった端末の画面に表示されているのはメールブラウザであり、そのフォルダにはコピーされたメールのログが並んでいた。 ケーブルに繋がった事で端末はメタルサーバと接続され、画面の端には「受信中」との情報ゲージがアニメーションで表示されている。しかし現状の波留は特にそれに興味を持たない。メールブラウザに新規メール作成画面を展開し、端末の表面にキーボードを表示させてそこに両手を添えた。 小型の端末にタッチパネル方式で表示されたキーボードは成人男性の手にとっては小さなキーではあるが、打ち込めない大きさではない。コンパクトなポジションを取りつつ、指を動かして静かに英語表記の文面をメール画面にしたためてゆく。 今打ち込んでいるのは、波留にとっては悩むような文面ではないらしい。割と軽快に指は進み、数分のうちに英文を完成させていた。 彼はそれをざっと眺めるが、訂正する箇所を見出さなかったらしい。文面に残っていたカーソルを、宛名欄へと移した。ブラウザ付属のアドレス帳を開く。そこに登録されているアドレスはそれ程多くはないが、彼はその中から上位に来ていたものを選択した。 そのまま彼はタッチパネル状のキーボードを操作して、メールの送信ボタンをクリックする。すると「送信中」のプログレスバーが画面に現れた。 確保された回線にデータが送信されて行き、やがてバーの進捗情報は100%となり送信が完了する。送信されたメールの画面は自動的に閉じられ、端末の画面にはメールブラウザ本体が全面に表示された。 そのブラウザのデフォルト表示になっている、受信箱を波留は視界に入れる。様々なメールの件名が並んでいるが、その上部のいくつかにアイコンが明滅していた。 それは新着メールを表す記号である。メタルに繋いでメールブラウザを立ち上げ、またメールを書いて送信した事で彼の領域に到着していたメールも受信していたのだ。 人工島の住民はメタルを満喫しており、メールのやりとりも多い。彼はメタルに数時間接続していなかっただけだったが、その間にも未読メールは溜まっていた。 彼は視線で並ぶ件名を走査する。しかし、それ以上の興味は惹かれない様子だった。無表情のままに、メールブラウザを閉じる。そして用件が済んだのだから、メタルから切断し端末を待機状態へと戻した。 ケーブルを引き抜き、壁へと収納する。それは先端のソケット部分を垂れさせた状態でリールに巻き取られて行った。 波留は鞄を台の上に置く。そのまま端末を鞄の中へとしまった。軽く首を振ると、解けたままの髪が頬を撫で首筋に当たる。 少し気になり、片手で前髪から掻き上げた。と、手首に止まったままの黒ゴムの存在を思い出す。手早く髪を掻き上げ、後ろに纏め、ゴムを引っかけて通して行った。鏡を前にしての身だしなみではないが、多少乱雑の方がこの現地に合っているような気がする。それに、いい加減結びたい気分もあったので、妥協していた。 間に合わせに身だしなみを整えた波留は、台の上の鞄を手に取る。ベルトを肩に掛けようとしたが、ふと何かを思いついたような表情になり、鞄を再び台の上へと下ろす。 その鞄の側面のポケットから、ペンとメモパットを取り出していた。ノックしてペン先を出し、視線を中空に向けて何かを思い出すような素振りを見せ、メモの表面にさらさらとペンを走らせる。そこに迷いめいたものは見られない。 彼がメモを取ったのは、ほんの僅かな時間だった。そのメモをパットから1枚破り取り、ジーンズのポケットへと突っ込んでいた。それから改めて鞄を持ち上げてベルトを肩に掛け、ようやく歩き始める。最早メタルへの接続ポイントには気を取られていない。 先程彼が受信し、特に興味を駆られなかったメールの中には、蒼井ソウタやその妹からの署名がなされたものも存在していた。しかし彼は、その馴染みの名前を送信者欄にて発見していても、件名のみを眺めただけだった。 |