波留の周辺の座席の殆どからは既に同乗の客達は姿を消している。他の客は既に航空機から降りたらしい。彼は窓際の席だったために、着陸以降も寝こけていても誰の迷惑にはならなかったようだった。
 しかし周辺にざわつきが通り過ぎても、彼は一向に目を覚まさなかった事になる。客が撤収を終えてゆく中、アテンダントも次の離陸へ向けて客室の整備を行わなくてはならない。そのためには、用が済んだ客には早く降りて貰わなくてはならず、こうしてやんわりと波留を起こす羽目になっていたのだった。
 50年前の時点から旅慣れていた彼は、その事情を理解している。口許に苦笑を浮かべ、アテンダントに了承した旨を流暢な英語で告げた。
 それから肘掛けに手を掛け、ゆっくりと立ち上がる。その拍子に後ろ髪が流れ、首筋に当たった。解かずに寝てしまったがために背もたれに髪が押しつけられており、その結び目が若干不安定になっているようだった。
 しかし、解いて結び直すのはここから降りてからにしようと思う。自分は乗務員の迷惑になっているのだし、そもそも髪型は洗面所などで鏡と向かい合って整えたかった。
 彼は立ち上がり、頭上の収納ボックスに手を伸ばす。そこを開くと、乱雑に突っ込まれた大きな肩提げ鞄とコートが現れる。それらは場所を取らないように片隅へと押し込まれていた。隣の乗客と共用するスペースなのだから、彼は気を遣っていた。
 それらの手荷物を取り出した波留は、鞄の紐を肩に掛ける。そしてコートを手に提げた。周辺の乗務員達に会釈すると、笑顔が返ってくる。彼らはこの航空会社からきちんと教育を受けているらしい。伊達に「楽園」たる人工島に乗り入れている路線ではないようだった。
 そのまま波留は通路に出る。作業に追われる乗務員達が彼の邪魔にならないようにさり気なく身体を避けてゆく中、しっかりとした足取りで彼はタラップへと向かっていた。
 それにしても、波留自身としては、良く眠ったものだと思う。
 波留は、航空路線に乗り慣れていない訳ではない。彼の仕事場は50年前の時代から海だったが、国家間の移動手段としては航空機を使用する事が大半だった。そして彼の仕事場は1国に留まらない。その都度彼は国際線を利用し続け、パスポートには出入国の認証スタンプが溜まって行った。
 しかし、それはあくまでも50年前の経験だった。彼は人工島で目覚めてからは、航空路線を利用してはいない。本格的に島の外へ出る用事がなかったからだ。
 もっとも、メタルダイブの依頼で近辺の島に出向いた際や、アイランドから護送される際に、VTOLに搭乗した経験はある。しかしそれも人工島から大きく外れる移動ではないし、彼のために用意されたプライベートな便だった。それまでの航空機利用とは趣が幾分違う。
 同様に、海上航路も目覚めて以来なかなか利用していなかった。だから、いざアイランドと人工島を結ぶ定期船を利用すると、その風景が目新しく思えたものだった。おそらくは他の住民にとっては有り触れた光景であっても、である。
 だから、アイランドから人工島に戻る時、或いはその逆の航路を辿る時には、彼はずっと窓の外を見ていた。煌く海面や透き通るような青い空、そこにはためく白い雲や輝く太陽を飽きもせずに眺めやっていたものだった。
 今回の国際線利用でも、それらに当て嵌まる行動を取ると、事前に彼は我ながら思っていた。
 人工島を空の機上から見たならば、どんな風に見えるのだろう――それ自体は以前のVTOLの窓から夜闇や昼間に見た経験があったが、本格的に遠ざかる人工島を見るのは初めてであるはずだった。ある意味それは楽しみにしていたはずだった。
 だと言うのに、気付いた時にはこうして寝こけていた。確かに空調と室温は整えられ、リラックスするには丁度良い環境だった。機内も満席ではなく、人口密度に余裕があった。その周辺の客の行儀も悪くなく、彼を苛立たせるものは何もなかった。
 しかしその手の環境は、人工島では有り触れていた。何も特別な事ではない。しかし彼はこうしてまどろみに落ちてしまっていた。
 ――やはり、僕は余程疲れていたのだろうか。
 波留としては、その結論に至る。
 何せここ数日、彼は自らに無理を強いていた。無論、安息義務や毎日の休息と睡眠は確保している。それを侵しては身体のみならず、精神をも壊す――それが現在の彼が選んだ、メタルダイバーと言う職業だった。
 それ故に、安全を確保していたと判断していたとしても、脳が疲れていてもおかしくはない。だから作業が一段落して長時間の移動と言う無為な時間を得た時点で、緊張が弛緩し彼の全てが休息を求めたのかもしれない。
 ならば、その欲求に素直に従った方が良かったのだろう。身体が求めるものに無理に抵抗しても、何もいい事はない。幸い、他に何もやる事はなかったのだから――窓の外が見たいとの欲求は満たされなかったが、それは身体と精神の疲弊を癒す事に較べては些細な問題だった。
 そのように論理立てて考えてゆくと、見ていた夢の中にて彼は海中に潜っていたのも頷けた。波留にとって、海中とは安心出来る空間なのだから。
 夢とは、脳の記憶などを整理する際に精神が垣間見る幻影めいたものである。疲弊した精神が癒されてゆく中では、自らが一番欲する空間に身を置く幻影に浸されるものだろう。
 実際、現在の波留は、心身共に疲れを全く感じていない。人工島からの数時間のフライトで得た睡眠が、彼を癒し尽くしたかのようにさっぱりとした心地だった。
 波留は思惟に浸りつつも着実に歩いてゆく。通路を行く彼はそのうちに空港の建築物へと辿り着く。
 その入り口に掲げられている案内板は薄汚れている。そこに刻まれた文字は中国語と英語である。その比率も中国語のフォントが大きく、英語は申し訳程度に添えられていた。
 そこに日本語を加えたならば、人工島に有り触れた案内板だった。そして日本語が刻まれていない看板も、人工島ではハナマチで見掛ける事がある。しかしこの看板が醸し出す雰囲気は、何処か違っていた。
 ここは既に人工島ではない。
 「楽園」から遠く数千キロを離れた場所であり、中国大陸の北部に位置する北京と言う名の都市の一角に存在する国際空港だった。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]