たゆたう海の中、心地良い冷たさと確かな圧力を肌に感じる。
 彼の身体の大半はダイバースーツに覆われているが、肌が露わになっている顔面には、その感触がより強く伝わって来ていた。南洋の海は凍えはしない水温であり、不快ではない。自らに押し付けてくる水圧も、むしろ海と言う存在を強く感じるための力として好意的に解釈出来た。
 ある程度の水深まで潜っているが、煌く海面の照り返しは海中にまで現れている。ゴーグル越しに、光がちらついていた。海水を透過しているの太陽光を受ける背中には、光の陰影が色濃く現れているに違いないと彼は思う。
 四肢の力を抜き、瞼を閉じてそこに漂うに任せる。口許からは泡が漏れている。海上にて補給した空気を着実に消費してはいるが、彼にはまだ数分は猶予があるはずだった。彼にとって、現状は全く苦痛ではない。
 僅かな海流に、結ばれた後ろ髪が揺らぐ。このままずっとここで過ごせればいいのに――そう思いたくもなるのだが、彼はあくまでも人間である。「肺呼吸をし、2本の足で地上に立つ生物」との分類から逃れる事は出来なかった。
 彼は人類の中では明らかに海に特化している存在ではあるが、それでも生物学上の「人間」としての枠から外れてはいない。海中に留まれば呼吸の術はなく、肺に溜め込んだ酸素を浪費してゆき、遂には耐え切れなくなる。
 アクアラングを装備していないダイブならば、いずれ海上に顔を出して息継ぎをしなくてはならない。それまでの猶予時間が、他の人間から群を抜いているだけに過ぎなかった。
 海のシンボル的存在であるイルカも、人間同様に肺呼吸の哺乳類ではある。しかし彼らは、それ以外の全ては海に特化した存在と言えた。彼らは左右の脳を交互に眠らせる事が出来、結果的に24時間泳ぎ続ける事が出来る。だから呼吸を忘れず、溺れる事がないのだ。そして流線型の体躯は水の抵抗を極力打ち消し、疲れを与えないような構造になっている。
 人間にはそれらは不可能だった。水の中に存在し続ければいずれ水の冷たさに体温を、或いは流れや水圧に体力を、それぞれに奪われ、それを放置しておけば力尽きる。酸素が欠乏しなくとも水中に沈む事になるのだ。
 それでも、彼にとって海中とは心地良い場所だった。文字通り、水を得た魚のように泳ぎ、潜る事が出来る。それがとても楽しい。可能な限りここに留まりたい。
 閉じられた瞼の奥に、うっすらと光を感じる。その感触に、彼はゆっくりと瞼を上げた。光の射す方に視線を向け、焦点を合わせる。
 海底に、光が淡く輝いている。それは海底への減算してゆく光の中、蒼い焔のように感じられた。

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