会話はそれで途切れる。ベッドに横たわる義体は再び目を伏せ、沈黙した。 そしてミナモも椅子に腰掛けたまま項垂れている。膝の上にはリコーダーを掴んでいたが、演奏を再開しようと言う素振りは見せない。伏し目がちで眉を寄せ、何らかの思惟に浸っている様子だった。 そこに、とんとんと扉を叩く音がした。空調の音しかしていなかった室内に、その音が響く。 明らかに外から扉をノックする音に、ミナモは顔を上げた。椅子に座ったまま、首を捻って背後を見やる。その先にある引き戸を視界に入れた。 人工島の施設であり隔離病棟の病室らしく、病室の扉の傍らの壁にはコンソールが設置されている。それが扉のセキュリティを維持する役目を担っていた。 外側にも同型のコンソールがあり、開錠キーを与えられている立場の人間ならば、そこに手をかざせば自動的に扉は開く事になっている。ミナモのような未電脳化者ならば、ペーパーインターフェイスで操作する事にはなるが、多少煩雑さこそあれ操作上は大して変わりはない。 しかし開錠キーを持ち合わせている人間だろうが、いきなり病室の扉を開ける事は病室の主に対して失礼に当たる。そのためにノックをしてくるのだろうとミナモは判断した。 とは言え、滅多な事ではミナモ以外の誰も訪問しない部屋なのである。AIはともかくその部屋に詰めているミナモのプライバシーは大人達から尊重されており、彼らを呼ぶ際にはまず電通やメールを送信する。そしてそれに応じ、ミナモ達が病室の外に出るとの暗黙の了解が成り立っていた。 しかし今回、こうして部屋の扉をノックしてきている。一体何があったのだろう――そんな疑問を抱きつつ、ミナモは入室を促した。 すると、扉の向こうから声がした。その声は女性のものである。 「――失礼します」 その声にミナモは思わず腰を上げていた。聞き覚えがない声だったからである。何より病棟スタッフに女性は存在しない。ならば、部外者がやってきたと考えるべきだった。 しかし扉はあっさりと引かれてゆく。どうやら開錠キーが送信されたらしい。となると、正式な訪問者と認識すべきである。しかし何故?――ミナモがそんな事を思っているうちに、扉の向こうから女性の姿が明らかになる。黒髪ショートカットのスーツ姿の女性がそこに立っていた。 その女性は無遠慮と言っても差し支えがないような視線を、病室内に向ける。値踏みするようにあちこちを見やり、その視線はそこに立っているミナモやその向こうのベッドに横たわる義体へも送られていた。 そして僅かに微笑み、ミナモに対して会釈する。胸元に掛けられたパスを提示した。 「――初めまして。蒼井ミナモさん。電理研調査部の者です」 「…はあ…」 ミナモは怪訝そうな表情を浮かべていた。つかつかとヒールの音を立てて室内に入ってくる女性を前にして、提示されたパスに視線を落とす。 電理研調査部を名乗る女性はミナモに対してパスを見易い位置に提示しており、少女はそのパスを手に取った。確かにそのパスには彼女が名乗った所属名と個人名が記されている。その片隅には電理研のロゴが記されている。ミナモは以前ソウタの職員証を見た経験があるが、それと同形式であるように思われた。 ちゃんと開錠キーを送信して入室しているようだったので、ミナモとしては今更職員証の偽造を疑いたくはない。確かについ先日に不意を突かれて侵入者に占拠された現場ではあるが、強化されたセキュリティがその二の轍をあっさり踏むとは思えなかった。 おそらくペーパーインターフェイスを用いてソウタに連絡を取るなり電理研の関係部署に照会を掛ければ、その彼女の在籍証明は可能なはずだった。そしてその女性もミナモがそう言う行為が可能な立場であると判っているはずで、ならば敢えて偽造証を用いる訳もない。 だからミナモは頷いていた。来訪自体には謎は多いが、彼女が本物の調査部の人間である事に疑いを差し挟まない。となると――と、ミナモは奥のベッドに視線を向ける。そこには波留の義体が目を伏せて眠っているような素振りを見せていた。 「AIさんに御用ですか?」 パスを片手に持ち、ベッドを振り向きながら、ミナモはその女性にそう問い掛けていた。 するとその女性は口許から笑みを消した。やんわりとパスに手を伸ばし、引く。その動作にミナモは思わず手にしていた女性のパスから力を抜く。そうする事で女性の手にそのパスは戻っていた。 女性はパスから手を離し、再び胸の前に吊り下げるに任せる。そして彼女は、ミナモに向かって軽く頭を下げて告げていた。 「いえ、あなたに用があるんです」 「え?」 ミナモはきょとんとした。――私に?一体何故? 彼女にしてみたら、AIの知識などを当てにして人間が来訪する可能性は考慮しても、まさか電理研の人間が自分に用があるなどとは意識の外だった。だから自分にパスを見せられつつも「AIさんに用ですか」と尋ねたのである。 そんな不思議そうな表情を浮かべている少女に対し、調査部の女性は顔を上げる。改めてミナモに向き直り、明確に申し入れた。 「先日の占拠事件に対する調査の一環として、あなたに聞き取り調査を行いたいのです」 その申し出に、ミナモは口をぽかんと開けていた。彼女にとって、正に予想外の申し入れである。 ミナモもあの事件直後から真相究明のための調査が開始していた事は知っていたが、彼女自身は一切事情聴取めいたものを受けていなかった。むしろ蚊帳の外に置かれていたと表現してもいい。それから数日経った今更、何故と思う。 「この病棟内の一室をお借りして行うように取り計らって頂いていますので、御同行願います」 女性は丁寧な口調ではあったが、その態度は有無を言わせないようなものだった。優しげの欠片もなく、取り付く島もない。あくまでも業務としてミナモと会話しようとしている。 その態度にミナモは押されている。勢いがある訳でも脅されている訳でもないのだが、従わざるを得ないような空気を感じ取っていた。それも調査員が備えている交渉術の一種ではあるのだろう。 調査員の何処か強硬な態度にも、ミナモには反発心は起こらない。確かに自分は関係者であり、犯行グループが狙った久島の義体と共にいた人間である。情報を繋ぎ合わせるためには何か尋ねたい事もあるのかもしれないと思い直していた。 ならば協力すべきだろうと少女なりに思う。だからミナモは頷く。口の中で小さな声を発し、申し出を受けた。協力するつもりなのに声が出ないのは、やはり緊張しているのだろうかと自分の事ながら思ってしまう。 そんな彼女に対し、調査員の女性は特に気を遣わない。軽く会釈した後、踵を返した。今入室してきた扉へと取って返そうとする。 その足取りに、ミナモは慌てて小走りになって追おうとした。手にしたリコーダーを無造作にサイドテーブルに置く。 そこに、低い男性の声が届いた。 「――蒼井ミナモ」 自らの名前を呼ばれ、ミナモは思わず足を止めた。サイドテーブルに手を置いたまま、ベッドを振り返る。そこには波留の容貌の義体が横たわったままだった。その瞳は閉じられている。 「君は、話したくない事は話さなくても良い権利を有している。それは君にとって不利になり得る情報であってもだ」 その抑揚のない台詞に、思わずミナモは小さく口を開けていた。AIが自ら言葉を発している。おそらく今までの話の流れは彼の聴覚に捉えており、それを元にした発言なのだろう。 そしてそれは、ミナモを気遣うと言っていい言葉だった。その概念自体は尋問を受ける人間が守られるべき一般的な最低限の権利であり、必ずしも特別な意見ではない。しかしそれを今ここで敢えて彼が表明するのだから、特別な意味を見出す事も可能である。 もし本当に彼がミナモを気遣い庇っているとすれば、それは今の無気力なAIからは意外な態度だった。だからミナモは驚きを覚えていたのである。 「この島は民主主義を標榜しているはずであり、君は世界のどの社会においても守られるべき未成年者なのだからな」 そこに彼の言葉は続いていた。そしてミナモはそれに、眉を寄せた。僅かに唇を重ね、噛む。少女はその言葉に、何処か引っ掛かるものを感じていた。 おそらくはAIには一切の他意はない。なのにそれが引っ掛かるのは、自身の心にささくれがあるからだ。彼女はそれを自覚していた。 そしてそれ以降、義体からの言葉は途切れた。助言が終了したと認識したか、扉の前で待っていた調査部の女性は再び歩みを開始していた。ヒールの音が静かな室内に響き、通路へと消えてゆく。ミナモはそれを追い、久島名義の病室を後にしていた。 |