人工島に君臨する巨大企業である電理研の最高支配者は、統括部長の役職に就いている。そして長年その任を担っていた久島永一朗は83歳と高齢であり、その身を全身義体に変えて久しかった。 彼に遺された生身は脳核のみであり、そして彼自身は我が身を守る事には然程頓着していなかった。そうする必要がなかったからである。 人工島とは世界に喧伝された楽園であり、そこに定住する入植者のみならず観光として来島する人々のデータ管理とその選別は徹底している。そうやって高度な人的セキュリティを保っており、犯罪率の低さを誇っていた。確かにハナマチのような無法地帯は存在するが、そこも他の都市の荒廃地区に較べては可愛いものである。 しかし打ち立てられていたはずのその伝説も、2061年7月16日に勃発した久島自身を巻き込む事件により、終わりを告げた。唯一の生身たる脳核を義体から外されて攫われたのである。 当日中には彼の脳核は奪還されたが、その意識は既にメタルに解けていた。その後のメタル初期化を経て、パーソナリティとしての彼は死を迎えた事になる。 しかし脳核自体は未だに生存状態にある。純粋に生命としては彼は生きており、それが法的解釈だった。そのために電理研と人工島は、彼の脳核を収納している彼自身の義体を丁重に扱い続けている。まるで脳死状態に陥った患者のように。 それが世間の建前であり、彼らは久島に対する治療を押し進めようとした。生命自体は失われていない以上、意識復活の僅かな可能性に賭けたのである。その治療は極秘裏に行われる運びとなり、電理研付属メディカルセンターの隔離病棟を使用し、少数精鋭のスタッフによって実行される運びとなった。それが10月半ばの頃である。 そして10月31日。その隔離病棟に、久島の脳核を狙ったグループが押し入った。 久島の入院とその場所は一切報道されていない。それを一般島民に知られては、収拾がつかなくなるからである。久島部長と言う人物は世界的な有名人であり、その動向は注視される。テロに倒れた現状では尚更だった。 だと言うのに、彼らはそれを何処かで知り、その情報を元として病棟を襲撃していた。久島の脳核に収められていると言う一個人の膨大な知識と記憶を狙ったのである。 ミナモは介助士志望の中学生として、久島の世話に当たっていた。それはアルバイト状態だったとは言え、電理研からの正式な依頼である。彼女は、隔離病棟で働く少数精鋭の一員にその名を連ねていた事になる。そのために彼女も久島の傍に居る人間として、事件に巻き込まれていた。危害を加えられそうにもなった。 それを庇ったのが、久島の義体に同梱状態になっていたそのAIだった。 そのAIの存在は、久島の入院よりも更なるトップシークレットである。久島永一朗は自らの不予を予測し、その時が来たならば一定の手順を経て「自らの知識と記憶を継承したAI」を起動させるように、自らの義体と脳核とに仕掛けを施していた。 そしてテロ直後、遺された人々が彼の意図を汲み、見事にその起動を成し遂げた。彼個人がリアルから消失しても知識はそうして継承され、結果的に地球を救う道筋をつけたのである。 その後もAIは起動を続けている。「彼」は久島の記憶と知識を管理する事を自らの命題として掲げ、実行していた。その存在は一般には隠蔽されている。テロに倒れた久島部長が「生きている」状況が明らかになれば、人工島の新たな秩序を乱しかねないからである。AIもその扱いを了承し、沈黙を保った。 しかし彼はその危機を目の前にしては、犯人グループに対して自らの存在を明らかにした。そして今まで彼を認識していなかった病棟スタッフにも同様の措置を取った。 久島の義体にそのようなAIが付随していた事は、犯人グループにも大きな誤算だった。そのために彼らは予定を大幅に変更して病棟スタッフを人質として病棟を占拠する。そして電理研統括部長代理たる蒼井ソウタを交渉相手としつつ、その脳核を奪う算段をつけようとした。 しかし彼らの試みは、ソウタ当人や波留真理の尽力により阻止された。病棟のシステムは奪還され、犯人グループは無力化され、全ては終わったかのように思われた。 しかし、彼らは大きな代償を払う事となる。最後の最後で波留達は詰めを誤った。それまで犯行グループとは別行動を取っていた最後のひとりの存在を把握し切れていなかったのである。 そのために彼を取り逃がした状態で安堵していたら、その場に現れた彼によってショットガンを発砲された。防護装備もない人間が不意打ちでその弾丸を喰らっては、確実に命はない。それを庇ったのはやはり、そのAIだった。 彼は久島永一朗としての義体を犠牲にして人間を守り切った。身を挺して人間を救ったのである。 義体を失ったそのAIは、丁度空いていた波留を模した義体に脳核を換装された。外見を久島永一朗から波留真理に変化させた事になる。しかし声帯は設定変更により、以前の久島の声を保っていた。とてもややこしい状況ではあるが、緊急避難であるために仕方がない。 AIたる彼がその身を犠牲にしてでも人間の生命を守ろうとするのは、設定の根幹である。何らおかしい行動ではない。 しかし、庇われた波留当人は、激怒した。自らを模した義体にとりあえず移動したそのAIの胸倉を掴み、「余計な事をするな」と罵倒したのである。 彼には彼の事情がある。そのAIは久島の脳核にその起動を依存している。AIと脳核の分離は不可能であり、彼がその存在を維持する限り脳核も付随する。 そこに、義体が完全に破壊されるような攻撃を受けたら、久島の脳核はどうなるのか。久島の義体は一般人用のノーマルフレームである。何ら特殊な防護機構は備わっていない。ショットガンの一撃に対する防護もなく、そんな状況だと言うのにその身を犠牲としようとするなど何事か。久島を、人間を殺す気なのか――波留の言い分はそれであった。 結果的にAIは波留の言い分を全面的に認めていた。久島の脳核を危機に晒した自らの行動は誤りだったと認識を改めていた。 それで一旦は全ては終わり、そこからAIの行動は変化していた。空も見ず、ミナモに話しかける事もなく、スリープモードを選択する日々を過ごし始めていた。 その一見して無気力極まりない状態に陥ったAIを前に、ミナモは困惑している。あの波留の言動が彼を傷付けた事は、彼女にとっては明白だった。 しかし波留の言い分にも正当性はある。少女にもそれは認めざるを得ない。確かに波留の糾弾は怒りに任せたものではあったが、その怒りが現実を曇らせて捉える状況には陥らせていなかった。 事件現場で残骸と化した久島の義体は早々に車椅子ごとビニールシートが掛けられて撤去され、ミナモの目には触れないように考慮された。しかしそれ以前に垣間見た燃え尽きようとするその力ない手や、破壊と炎上を目の当たりにした波留の取り乱しようを思い起こせば、その義体はかなり酷い状態に陥っていた事は少女の想像にも難くない。波留が指摘したように、下手をすれば久島の脳核すらも損傷を受けた可能性も否定出来ないのだ。 だが、久島の脳核を優先して、AIが波留達を庇わなかったらどうなっていたのか。代わりに大ダメージを受けていたのは、ミナモを庇いショットガンの弾道にその背中を晒した波留となっていたはずだった。 そして波留は正真正銘の生身である。肉体が傷付けば、それは生命に関わる負傷ともなる。意志を保つ電脳さえ無事なら義体を換装すれば良いAIやアンドロイドとは事情が違うのである。彼は鍛え上げた肉体を有するにせよ、根本的に人を殺すために設計されている弾丸の前には無力だっただろう。 だからミナモにはAIの判断が間違っていたとは思えなかった。AI自身はそれを否定するが、彼女はそれを肯定したかった。しかし、だからと言って波留の言い分も否定出来るものではない。彼女はどちらが正しいとすべきか迷ったまま、3日を経過していた。そしてその結論を見出す見込みはまるでなかった。 |