久島永一朗名義のその病室には、相変わらず窓から夕陽が射し込んでいる。そしてその部屋には沈黙の帳が下り、射し込む陽射しが空調が効いている室内の温度を僅かに上昇させる音すら聴こえるようだった。 黒髪の青年に容貌を換えたそのAIは、ベッドに横たわり瞼を伏せて口を噤む。それを前に、椅子に腰掛けた中学生の少女は項垂れていた。彼女の指は膝の上のリコーダーを握り締めたままで、その唇からぼそりと呟くような言葉が漏れる。 「――…最近、空、見ないんですね」 その台詞は、小さな声だった。日常ならば生活音に遮られかねない程の声量であり、普段の快活なミナモからは考えられないような状況だった。 ともあれ現在のこの室内は、射し込む陽射しが空気中に含まれる僅かな水分を蒸発させる音すら聞き取れるような状態であり、ミナモの声は充分に通っている。それでも、仮に義体の聴覚が彼女の声を捉えたにせよ、それに反応を見せるかは彼の自由意志に拠るだろう。だからミナモは期待せずに俯いたままだった。声を発した後も項垂れている。 そこに、淡々とした声が届いた。 「――その行動は、私には意味を成さない」 声を聴きつけたミナモはぴくりと身体を震わせる。ゆっくりと、恐る恐ると言った感で顔を上げると、目の前に横たわる黒髪の青年が僅かに唇を開いていた。 そこから言葉が紡ぎ出されたのだと、ミナモは思う。聞き覚えがある声が聴こえて、その声に該当する目の前の人物が口を開いているのだから、考えなくとも瞬時に判る事だろうに、少女は馬鹿正直に思考してしまっていた。 そんな当たり前の事を思わず考えてしまったのには、彼女なりに理由がある。その義体が動作させていた痕跡を残していたのはその唇のみだった。それ以外は一切動かしていない。瞼すらも開こうとはしていなかった。 黒い前髪が無造作に目許に掛かっている無表情な顔に、夕陽と室内灯の光が交じり合っている。ミナモはその顔に視線を落としていた。こうして見るとやはり眠っているようにしか見えない。彼のその容貌はミナモが知る波留真理そのものだが、彼女には「AIさん」としか認識出来ていない。 ともかくミナモは、微かに口許に笑みを作り出していた。答えを寄越してくれた事に、少しは安堵の気持ちが湧き上がってきた心地がしていた。 しかし、このAIに確実に訪れている変化はそのままだった。そしてミナモにはその変化について、好ましいとは思えなかった。 「…今まではここからずっと空を見ていたのに、一体どうしたんですか?」 ミナモは躊躇いがちにそう尋ねていた。 以前、この病室に「久島」が入院して以降、ミナモは暇を見付けてはリコーダー演奏の練習を行ってきている。そしてその最中、ベッドに収まった義体は窓の外を眺めていた。 まるで自らの演奏をBGMとされているかのような状況に、ミナモは当初照れていた。しかし拙い練習中の楽曲であっても、誰かに聴いて貰える事は彼女としては嫌ではなかった。たとえ特別に感想を貰えないにせよ。だから義体の同席の元に、あまり気に留めず練習を続けてきている。 当時、その義体に「そのAI」が存在している事実は、この病棟に詰めているごく少数のスタッフや関係者の中でもミナモしか知り得ていなかった。もし義体が意識を取り戻した状態で居るのをそのスタッフに目撃されたならば、大騒ぎになっていた事だろう。 意識不明の義体相手であっても、その脳核は久島部長のものである。その病室には介助担当として人間の少女が詰めている。彼らのプライバシーは保たれるべきであり、セキュリティ目的での監視システムもこの室内のみは設置すべきではない。余程の用件がない限り、不用意に病室を訪れるべきでもないだろう――スタッフ間にその合意があったから、AIはこの室内のみで動作し意識を取り戻していた。しかし動作している以上、完全な隠蔽は不可能である。その危険を犯してまで、彼は空を見ていた事になる。 翻って現在は、あの占拠事件を経て、「そのAI」の存在は病棟スタッフの全員に周知される所となっている。無論その他の外部の人間には明かされていないトップシークレットのままではあるが、この隔離病棟にはスタッフ以外の人間は基本的に出入りを禁じられている。ここに居る人間全員が彼の事を知っている以上、今更意識を喪失している振りをする必要はない。今こそ大手を振って空を眺めるなりすれば良かった。 だと言うのに、あの事件後にはそのAIは一切空を見上げなくなってしまった。それだけではない。ミナモの前でも殆ど目覚める様子を見せなくなった。人間達からの呼びかけには応じるが、自発的に動作する事はなくなった。普段は目を伏せ、全ての入力を断っているのが常となりつつある。 何故、そんな事になってしまったのだろう。ミナモは今、それを問おうとしていた。 対してAIは唇のみを動かす。あくまでも最小限の動作に留めようとするかのように。 「そもそも、今まで空を見ていた事自体がおかしいのだ。私には全く意味がない行為だと言うのにな」 以前にもこのAIは、空を眺めている自分の行動を「意味がない事」と断じていた。しかし、それでも何故か空を見上げていた。自分が動作出来る数少ない機能を用い、その風景を自らに入力させるかのように。 今となってはその行為は、本当に「意味がない事」と言う認識に至ってしまったようだった。ミナモはそれを理解し、溜息をついた。 実の所彼女には、このAIが空を見なくなった事情は何となく判っていた。彼に説明を受けた訳ではなく、確証もないのだが、その結論を直感している。僅かに視線が泳ぐ。それを誤魔化すように目を細め、微笑した。 「――…波留さんが言った事、気にしないで下さい」 ミナモはそんな事を言っていた。それは数日前、彼女の大切な人たる波留真理が行った暴挙――彼女にとっては間違いなくそうだった――を思い起こしつつ口にした台詞である。 義体は軽く唇を閉じた。少し考え込むような沈黙を見せる。しかしそれも長くは続かない。その形の良い唇が開き、再び短く答えを導き出す。 「AIに対する彼のあの言動には、一切の誤りは存在しない。間違っていたのは私の判断と行動だ」 「そうかもしれないけど、そうじゃないんです」 ミナモは自分で言いながらも矛盾していると思う。私は一体何を言いたいのだろう――。 それに対し、義体は無言だった。――どう言う意味だ。君が言う事は相変わらずまるで訳が判らない――そう言った突っ込みもなかった。 ミナモはそれを意外に思い、またそれを寂しく思った。――彼は本気で全てに対し無関心に成り果ててしまっているのだろうか。そんな事を思った。 |