壁面を大きく切り取るように配置されている全面のガラス窓からは、紅い夕陽が射し込んで来ていた。
 このガラス窓はメタル端末でもあるため、その操作によってこの窓の透過設定を自在に変化出来る。外からの風景は透過しても室内の様子は外部からは垣間見えないようなマジックミラーとしての機能をデフォルトとしているし、その外の風景を煩いと感じたならば光量を減算させる事も可能だった。
 そのために、カーテンなどの煩わしい装備はこの部屋には存在しない。電理研付属メディカルセンター内においても、この隔離病棟の病室に相応しい環境となっていた。外部から入院患者の情報を可能な限り知られないようにする措置の一環と言えるからである。
 その夕方、この部屋にて白い人工島中学校の制服に夕陽の紅を照らし出しつつも、少女が椅子に腰掛けてリコーダーを吹いている。
 彼女の傍らにはサイドテーブルが置かれており、その上には大きな肩提げ鞄と共に広げられた紙タイプの譜面があった。しかし少女はその譜面を凝視してはいない。時折ちらりと視線を落とすが、あくまでも意識はリコーダー上での指の運び方に行っている様子だった。それでも演奏は然程途切れないのだから、既にある程度は暗譜が完了しているようである。
 蒼井ミナモがこの病室を訪れ、このようにリコーダーを演奏する風景は馴染みとなりつつあった。
 それは介助士志望の少女に与えられた依頼をこなす合間に行っていた練習だった。今までは彼女は特に楽器の演奏には興味はなく音楽の授業に留まっていたが、ふとしたきっかけから思い立って始めていた。
 少女の奏でる音楽は3週間足らずの練習を経て、拙い演奏もどうにか聴けるレベルへと発展していた。それはあくまでも音楽の授業の実技テストにて及第点を貰えるかどうかと言う代物だったが、ミナモにとっては充分過ぎる出来栄えとなりつつあった。
 彼女自身、自らの進歩を自覚して満足はしている。誰かに聴かせようとか人前で演奏しようとかそう言う目標を抱いて始めた練習でもない。だから自分の物差しで納得する他ない。幸か不幸かこのリコーダーソロアレンジ版のクワジ・プレストは結構な難易度を誇っており、譜面通りに音符を拾って完璧に演奏出来るようになるにはもう少し時間を必要とするようだった。ミナモにはまだ、目に見えて未踏の領域が存在している。
 だから、少女にしてみたら、この日常はもう少し続く予定となっていた。しかしここ数日の間に、彼女の前の現実には大きく変わった点が存在していた。
 この病室の患者はミナモ当人ではなく、彼女は介助担当である。そのために正式な病室の主はベッドに横たわっているのだが、その容貌は3日前から一変していた。
 そこを定位置としていたのは、褐色の髪を持つ壮年の人物だった。分け目から流れる前髪は僅かに長く、たまに目許に掛かってしまっているのをミナモが掻き分けてやったりしていたものだった。
 しかし、今は違う。そこに居るのは長い黒髪を持つ青年だった。以前の人物よりも顔立ちは若々しく、前髪も癖っ毛気味のままとなっている。そして肩を覆う程度に伸ばされた髪は解かれており、枕に頭を埋めていた。
 譜面に視線を落としたその先に、ミナモは彼の顔を見る。すると、少女の表情が曇った。心なしか奏でる音も寂しげになった心地がする。
 ミナモにとってそこに横たわる人物の変化は、大した問題ではない。彼女にとってそのふたりは同一人物であると認識されており、それは事実だった。人間と言う意味での「彼」は脳核のみの存在であり、収まる義体を入れ替えただけに過ぎない。
 そしてミナモは外見に捉われずその内面の同一を見抜いている。彼女が問題にしているのは、もっと別の事だった。
 現在の彼は夕陽の紅を顔に当てつつも、瞼を伏せて沈黙していた。人間が眠っているかのように横たわっている。ここは病室であり病院服を纏いシーツを肩まで被せられている立場なのだから、当然の姿ではある。
 しかし、以前の容貌の頃には横たわっているにせよ、顔を傾けて窓越しにでも外を眺めていた。うっすらと目を開けて空の蒼や夕陽の紅をその義眼に映していた。
 それを背景に、ミナモは彼に聞かせるともなくリコーダーを吹いていたものだった。しかしあの日以来、その日常は訪れなくなっていた。
 ミナモは手を止めた。リコーダーに息を吹き込むのも止め、口を離した。溜息をつくように肩を揺らし、リコーダーを膝の上に下ろす。僅かに被りを振り、髪が顔の横で揺れた。
 そして決心したように顔を上げる。今までリコーダーを銜えていた口を舌で馴染ませてから声を発した。
「――AIさん」
 ミナモは努めて明るい声を出そうとしていた。しかしリコーダーを吹き続けていたせいか、その声帯は若干掠れを帯びた声を発していた。
 病室内に少女の声が響いても、その義体は微動だにしなかった。まるで聴こえていないかのような素振りを見せている。彼が本当に「眠っている」のならば、聴覚が彼女の声を一切捉えていないのかも知れない。
 ミナモは眉を寄せた。困ったような顔をして、膝の上のリコーダーをぎゅっと握り締めた。そして何かを言い掛けた時、彼女の耳に聞き慣れた声が確かに聴こえてきた。
「…何か用か。蒼井ミナモ」
 それは淡々とした声であり、全く抑揚がない。男性の声質としては低く良い声に区分されるものだったが、そこには感情と言うものがまるで感じられなかった。
 ミナモはその声に反応し、椅子から乗り出して彼の顔を覗き込む。僅かに中腰になる。膝の上のリコーダーは取り落とさないように、スカートごと掴んで保持していた。
 義体の彼はうっすらと瞼を開いていた。枕に後頭部を押し付けたまま天井を見上げている。現在は夕陽を窓から受ける時間帯ではあるが、室内の光量を一定に保つために天井に設置された室内灯も点灯している。そこから降り注ぐ淡く白い色調の落ち着いた光を、彼は瞳に受け止めていた。
 彼はミナモの方を見ない。視線すら送らなかった。それでもミナモが彼の存在を示すその呼び名を耳にして、応対はしていた。最低限、傍らの少女の存在を認識している素振りは見せている。
 それに当のミナモは納得する。自らを鼓舞するように大きく頷いた。やはり明るい声を出すように心掛けつつ、台詞を継いだ。
「…えっと、特に用があるって訳じゃないんですけど」
「ならば、私はスリープモードに戻る」
 しかしミナモに与えられたのは、被せられた淡々とした台詞だった。義体からのつれない言葉に、少女は困惑気味の表情を浮かべる。
 そんな彼女を気にも留める様子もなく、義体は天井を見上げたままの両眼をゆっくりと伏せ始めた。発した言葉通りに予告した行動を実行に移してゆく。
 自らを呼称されたからスリープモードを解除して反応を見せたが、呼んだミナモは特に命令を発しようとはしない。ならば自らにやるべき事はなく、沈黙を守ろうとする。それはAIのプログラミングとしては在るべき姿といえた。
 しかし、明らかに自分を見ず、意識にも含めてくれていない義体の態度に、ミナモは伏し目がちになる。心なしか、彼女の心境を表すように髪を留めているピンクの大きなリボンが下がっていた。
 
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