波留の態度は普段とは明らかに違っていたが、その歩み自体は変化していない。いつもの成人男性としての落ち着いた歩みのままだった。 「――波留さん!」 ミナモはその背中を目指していた。小走りに彼の後を追い、結んでいない髪が揺れる。 先行している波留に、背後のミナモの声が聴こえていない訳はない。しかし彼は歩みを止めなかった。静かに歩みを重ねてゆく。 そこに、小走りのミナモが追いつく。いくら成人男性相手であっても徒歩を続けていたならば、中学生の少女でも彼の元に辿り着く余地は充分に存在していた。 「波留さん、待って」 ミナモはもう一度、その広い背中に呼び掛けていた。そこまで長い距離を走った訳ではないが、彼女の声は弾んでいる。 車椅子同士であっても離合出来る程度には広い廊下であり、人通りも全くない場所である。そこで波留はようやく足を止めた。ゆっくりと首を巡らせて振り返る。ミナモに視線を送った。 その瞬間、ミナモは背筋が凍るかと思った。 現在の波留が纏っていた雰囲気は、普段の暖かなものとは明らかにかけ離れていたからである。瞳の色は絶対零度の印象で、口許は笑みに綻ぶ事もなくしっかりと結ばれている。 それは、まるでつまらない存在を見下すような態度であり、先程まではあのAIに向けられていたものである。それが今は、自分に向けられている事実に、ミナモは戸惑っていた。 しかしミナモは両手を胸の前で握り締めた。自分の言いたい事を、彼に伝えようと奮起した。 「――波留さん、あの言い方は酷いよ!AIさんだって、波留さんを庇おうとして」 「あなたは、僕が庇いました」 そこに、波留はミナモの台詞を遮っていた。はっきりとした口調で、被せるように自らの言葉を乗せる。 その態度に、ミナモは勢いを削がれていた。波留の態度はミナモを眼前にしても氷解しない。そんな事は今までになかったはずだった。 少女はぐっと詰まる。しかしここで引いてはならないと思った。再び拳に力を込め、波留に向かって迫る。 「だから、波留さんの身が」 「僕は、どうなっても構わなかったんです」 再び被せられたその言葉に、ミナモは目を見開いていた。眉を寄せる。軽く息を吸い込んでいた。信じられないものを見るような視線を波留に対して送る。 ――どうしてそんな事を言ってしまうのだろう。 皆、自分を傷つける事を厭わずに、どうして私を庇うんだろう。 そして波留さんにだけは、あんな事は言って欲しくなかった。 窓も開いていないはずの廊下に、一陣の風が吹き抜けた印象があった。向かい合ったふたりの髪が何かになびき、揺れる。髪に視界を遮られる。 その向こうで、波留はゆっくりと瞼を伏せた。それなりに整った顔に意志の強そうな眉が寄せられる。話を打ち切るように彼は再び前方を向こうとしていた。彼の動きに合わせるように、結ばれた後ろ髪がなびいてゆく。 それを認めたミナモのまなじりが上がる。大きな一歩を踏み込んだ。 「――波留さん!」 彼女は大きな声でその名を叫んでいた。それに、波留も動きを止める。足を止めて彼女の方に向き直っていた。 そこに、波留は衝撃を受けていた。 あまり勢いはついていなかったが、黒髪の青年は確かにその左頬を張られていた。さしもの波留も驚いたような表情を浮かべ、瞼を上げている。傾いた顔のまま、正面にいるべき少女に視線を送っていた。 波留の前でミナモは俯いている。その肩を震わせ、胸の前には大きく開いた右手があった。その手首を左手で掴み、まるでそこに留めるような態度を見せている。開かれた右の掌の肌はほんのり赤く染まっていた。 背の高さが17センチ差の相手に対しての平手打ちのため、威力は然程大きくはない。むしろミナモは自らの掌が痛いと思っていた。それは殴った直接的なダメージによるものばかりではない。「波留に手を上げた」と言う事実そのものが、彼女自身に堪えていた。 ――波留さんは、AIさんの事を「人」として見てくれているのだと、今まで信じていた。 自分の存在に思い悩んでいる彼に対して、端末とは違うんだと否定してくれると信じていた。だからあんなに優しいのだと、信じていた。 なのに、それが違ったなんて。 ――「久島さん」の前では、それが全て吹き飛んでしまうなんて。 やがて少女はきっと前を向く。そこに立ち尽くしている青年を鋭い眼差しで見上げていた。頬は紅潮に至っており、目許は潤み始めている。 このままでは、彼の前で泣いてしまうだろう。 ミナモにはその自覚があった。 だからこそ、その前に立ち去ろうと思った。彼女は口許を歪め、叫ぶ。今感じている気持ちを――苛立ちを、目の前の青年に叩き付けていた。 「そんな波留さん、嫌いです!」 |