その義体は目を見開いていた。大きく開いた目の中で瞳孔が狭まってゆく。その瞳が不安定に揺れている。精神的に大きなショックを受けた様子だった。肘掛けの上で、両手の指を丸く曲げた。強く握り締める。
 彼は何かを言おうとした。唇と喉が震える。意味を成さない掠れた声が漏れ、そこに何かが続こうとした。
 その時、彼の中で何かがごとりと動いた。自らの電脳に、記憶が組み変わる感覚が伝わってくる。思考が何かの奔流に押し流されてゆく。
 ――思考に補正が掛かる。私が今考えている事が、消え去ろうとしている。
 仮にAIが思考の末に、人間にとって都合が悪い結論に至った場合。或いは自己矛盾を生じるような思考に至った場合。その時点で速やかに思考の補正が掛けられる。
 それこそが、人間に奉仕すべき存在として形作られているAIの根幹設定の発動だった。それはマインドコントロールめいた、彼らの精神の根幹を支配する絶対的なルールである。彼らの無意識のうちに補正は掛けられるか、補正の自覚はあってもそれに抵抗する事など出来る訳もなかった。
 そして彼はそれを受け容れていた。自らの思考の改変を良しとした。それに抵抗する気力など、今の彼にはなかった。
 僅かな電子音が発せられる。瞳が一瞬曇り、視界にもやが掛かった。作っていた拳が、肘掛けの上で解ける。
 その瞬間、彼の意識が一瞬断絶する。そして次の瞬間にはその事実を忘却していた。自動的に意識に補正が掛かり、通常起動に戻る。ぼんやりとした瞳に焦点が定まってゆく
「――…波留真理。君が言う通りだ。私の選択は誤っていた。すまない」
 そのAIは、平坦な声を用いて、目の前の人間に対して軽く頭を下げる。胸倉を掴まれたままだったが、彼はその作業をこなしていた。
 彼は確かに自らの選択について、謝罪していた。その表情は全くの無表情に成り果てている。瞳には感情めいたものが何も込められていない。
 彼は、この直前に別に言おうとしていた台詞のみならず、何かを言おうとしていたその行動すらも、忘却の彼方としていた。
 波留にこうして胸倉を掴まれているのは、自分が義体を全壊させる事で久島永一朗の脳核を危険に曝したからである。それは波留とミナモとを護るために取った行動だったが、確かに波留に指摘されたようにそれは誤った判断だった――彼の思考はそう言う終着点に至っていた。
 それは確かに彼が思考していた事である。しかしそれ以上に何かを考えて何かを感じたはずだったが、彼の中ではそれらの記憶は消去された。それらの記憶を欠損しても、他のデータで辻褄を合わせてゆく。それが設定をプログラミングされているAIと言う存在の日常だった。
 そして、彼の胸倉を掴んでいる同じ顔を持つ男は、顔を歪めてその義体を見下ろしていた。口の奥で噛み締めた奥歯が音を立てる。胸倉を掴む手の爪先が、痛いまでに自らの掌に食い込んでいた。
 AI相手とは言え今まで繕ってきた心境を吐露してみたが、彼の怒りは一切晴れない。むしろその義体の動作の不可解さから、目の前でそのAIの記憶が組み変わったのを悟ってしまった。
 結果、その拳を下ろす先を見失っていた。何せ眼前のAIは、自らがしでかした事の理由を「忘れてしまった」のだろうから。アンドロイドとの付き合いがそれなりにある波留は、その動作状況も大方把握している。
 目の前で車椅子に腰掛けている義体は、無表情に波留を見上げている。胸倉を掴まれていても、一切気に留める様子がない。そしてその義体は波留と同じ顔をしている。その光景の異様さに、波留は愕然とした思いに至っていた。
 黒髪の青年は口を開いた。歯を噛み締めていた事で顎が痛いが、それを解放して大きく息を吸い、溜息をつく。肩を大きく落とし、相手を掴むその手を離した。
 彼は普通の人間であり、筋力も通常の成人男性の枠から大きく外れる事はない。だから成人男性としての体重を保っているその義体の胸倉を掴んでいたにせよ、義体の腰が車椅子から僅かに浮いていたに過ぎない状態だった。
 その手を離され、義体はすとんと腰を落とす。受動的な態度を保ったままで、彼はその勢いのままに軽く首を竦めるように傾けていた。
 解放されたものの、引かれ乱れた襟元に視線を落とすが、それ以上の事はしない。肘掛けに置いた両手を伸ばしてそこを整える事もせず、ゆっくりと顔を上げた。人間に絶対服従するAIとして、目の前に立つ人間の言葉を待つ。
 波留はそんな義体を只見下ろしている。その顔は歪み、頬を紅潮させ震わせていた。口許からは荒い息が漏れている。未だに怒りは過ぎ去っていない様子だったが、彼はそれを噛み殺そうとしていた。胸に左手を押し当て、自らの青いシャツを鷲掴みにする。
 やがて、その口から声が発せられていた。
「――…あなたが、するべき事とは?」
 波留のその声は、表面上は落ち着きを取り戻していた。静かな響きを保っている。しかしその表情は歪んだままだった。
 その人間を、義体は首を傾げて見上げる。無感動な瞳を向けた。そして求められた答えを導き出す。淡々とした声に、それを乗せた。
「久島永一朗の知識と記憶の管理と、彼の脳核の保護」
 AIが抱える命題を耳にした波留は、目を伏せた。軽く溜息をつく。僅かにかぶりを振った。前髪が彼の目許に掛かる。胸を掴む左手から、力を抜いた。車椅子の義体に対し、諭すような口調が突いて出てくる。
「なら、久島を危険に晒すような事はしないで下さい。つまり、彼の脳核を自らの義体に保持している以上、あなたは自分の身を守らなくてはならない」
「…そうなるな」
 僅かな沈黙の後に、義体は伏し目がちに首肯した。波留の意見を認める。
「僕を庇って自らの義体を全壊させるなど、もっての他です。そんな、自己満足を行使するとは何と愚かな」
「全くだ」
 波留の言葉を、そのAIは肯定してゆく。自らが取った行動は誤りだったと態度で示していた。
 そんな義体に対し、波留は表情を変化させていた。一旦は落ち着こうとしていた彼だったが、再び眉を上げる。口許を歪ませ、目を見開いた。
 波留はその瞳のままに、車椅子の義体を見下す。睨み付けるように一瞥をくれた。
「――判ってくれたのなら、それでいいですよ」
 その台詞とは裏腹に、波留は表情を凍り付かせたまま踵を返していた。僅かに肩を怒らせた状態で、車椅子に背を向ける。包帯に包まれた両手は強く拳を作っており、震えている。
 そのスニーカーが一歩を踏み出す。焼け焦げた床を踏み越えるように彼は歩き始めていた。
 その場には、ミナモと義体が残されている。
 
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