隔離病棟では、使用される機材や備品をある程度の数量ストックしている。
 疫病が人工島に蔓延する兆しが見られた場合には、隔離病棟は自らが抱える本来の業務において早急に対応する必要がある。そのために、医療品やその他の機材を病棟自体に備蓄しているのだ。
 無論、同じ敷地内に存在する本棟を始めとした各棟には、更に多くの医療品などが備えられている。しかしいざとなれば隔離病棟はそれ自体で独立し他の建築物との関係を隔絶しなければならないため、それだけの備えを必要としているのである。
 現在、久島の記憶と知識を受け継いでいるAIが換装された義体は、メンテナンス用の処置室からそのガラス壁の向こう側へと移動させられていた。
 義体は変化しても、彼の内部にインストールされているプログラムには変更点はない。ハードウェアとしての義体を操作するためのプログラムも変化していないため、彼が四肢を殆ど動作出来ない環境も変わりはなかった。だから彼は、相変わらず車椅子に乗せられている。
 その車椅子は、義体換装以前から使用しているものではなく真新しい別の物へと変更されていた。
 ショットガンの直撃は義体本体に喰らったものの、その爆風は彼の左肩口と左胸とを吹き飛ばした挙句に、彼が腰掛けていた車椅子にも到達していた。そこにあった背もたれを激しく陥没させたのである。更には彼は電脳制御で車椅子の車輪を空転させ、その床との摩擦で発破の衝撃を殺していた。その行為は車輪に負担を掛け、サスペンションを焼き切り車輪の表面もぼろぼろにしていた。
 そんな彼の努力により、爆風や炎は車椅子の背後には到達していない。彼は自らの義体のみならず、車椅子も潰して人間達を護った事になる。そして義体共々、車椅子も交換となっていた。
 これは隔離病棟の備品として確保されていた車椅子である。今まで彼が使用していたような最新モデルではない。機能面において、若干の水準の低下はあった。しかし電脳制御による自動化など、2061年の車椅子の水準は保っている。
 そのために、利用する彼としては大して困るような事もなさそうだった。強いて言えば車輪の素材が床の段差を捉えて自動変形するような機構ではないので、床の僅かな凹凸を律儀に捉えて車椅子が揺れる点が気になる。しかしそれも、彼は罹患した人間ではなく単なるAIなので、許容範囲だった。
 ともかく、彼は脳核の換装を終え、最低限のメンテナンスを完了していた。今後は右肩の修復を行う必要があるが、それは交換用パーツを調達してからの作業になる。この義体は高価な有機素材でありそれ以上にオーダーメイドであるため、合致するパーツはメディカルセンターにストックされていなかった。そのために、現状はとりあえず傷口を塞いで循環液の流出を防いでいる。
 そんな状態の彼が車椅子に収まり、技師に車椅子を押されて処置室から出てきていた。動かない右腕も無事な左腕同様に肘掛けに乗せ、無表情に姿を現している。
「――AIさん!」
 途端、褐色の髪を翻らせた少女が彼の元に駆け寄ってきていた。そのまま飛び込むように、車椅子に腰掛けている彼の身体に抱き着く。
 無感動だった彼は僅かにその目を見開く。その彼の顔の脇を、少女の素肌の腕が通り抜けていった。彼女の腕は義体の結ばれた黒髪をすり抜け、首の後ろに回される。引き寄せるように、ぎゅっと抱き締めていた。
「無事で良かった!」
 ミナモの声は弾んでいるが、若干篭っていた。涙ぐんでいるからだろう。
 感触を確かめるように何度も力を込めて抱きしめてくるミナモの腕を受け容れつつも、その義体は呆然とした表情を浮かべていた。彼自身は何も言葉を発しない。
 その様子に、義体技師も若干腰が引けていた。しかし涙の再会を邪魔する気にはならない。ひとまず彼の作業も終了しており、処置室へ戻って義体のデータの確認をやる事にした。そのまま彼はガラスの向こうへと引っ込んでゆく。
 そうやって残された後、やがて、気が済んだらしい。少女はその腕を緩めた。車椅子の元にしゃがみ込んだ体勢のまま、義体の顔を覗き込んでいる。付き合わせたその瞳には、やはり涙が滲んでいた。それを拭おうともせず、ミナモは口を開く。
「――…あ、でも、こんな風に義体換えちゃったのか。でもAIさん自体は変わってないんですよね?」
「…ああ。私が保持しているデータに損傷はない」
 義体は問われ、それに応えていた。弾むような口調のミナモに対し、彼は相変わらず淡々とした声を発している。
「なら、やっぱり良かった」
 ミナモは大きく頷いていた。その大きな瞳には、喜びの感情が満ちている。
 義体はその扱いに戸惑っている。本当にこの少女は、私を「人」として扱いたいらしい――AIとしては、それは違うと指摘したいし今までにそう指摘し続けている。
 しかし、今は悪い気はしなかった。それで彼女の気が済むなら、そのまま受け止める事とした。
「君は無事か?」
 喜びを露わにしている少女に対し、彼はそう問い掛けていた。外見上は怪我の様子も見られないが、彼としては一応それを確認しておきたかった。自らが人間を護ると言う義務を果たしたかどうか、それを実感したかった。
 そんな義体に、ミナモはまたしても頷く。褐色の髪が大きく揺れた。
「はい。AIさんと波留さんのおかげです」
「波留…?」
 ミナモの返答に、彼の口から怪訝そうな声が漏れていた。その答えは、彼にとっては予想外だったのだ。
 そのまま視線を更に向こう側へとやると、そこには彼と同じ容貌を持つ生身の人間が腕を組み立っている。その人物は、顔を強張らせて彼らの方を見ていた。
 視線を向けられた事に気付いたのか、その波留は僅かに笑みを見せる。視線を送る義体と、その背後に居るミナモに対して微笑みかけた。軽く会釈する。
 ミナモはそんな波留の態度に笑う。そして車椅子の背後に回った。その義体の容貌は変われど、彼女はいつものように使命を果たそうとしていた。介助担当として、車椅子を押す。自ら近寄ろうとはしない波留の元へ、自分達を導いて行った。
「――…本当に御無事で何よりです」
 眼前にやってきた車椅子の義体に対し、波留はそう言って微笑みかけていた。しかし、その笑みは何処かぎこちない。
 彼に対し、怪訝そうな視線をAIは向ける。そんな風に笑う波留を見るのは、そのAIは初めてだった。それは彼自身の記憶にもないし、彼が継承しているオリジナルの人物の記憶にも存在しない。
 やはり普通の人間ならば、同じ顔を持つ別人の存在を許容出来ないのだろうかと、その義体は思う。
 2061年現在において、大量生産品の義体のフェイスデザインは同一化されている。人工島ではタイプ・ホロンがその第一人者である。彼女らは、初代人工島プリンセスたるタカナミ書記長の容貌を元としてデザインされていた。
 それは特定の個人の許諾を得て作成されるデザインであり、逆説的には他の不特定多数の人間に似ないように心掛けられていた。義体黎明期を通過した後には、それが権利の侵害になると言う考え方が一般化しているからである。
 無論、個人使用の義体についてはオーダーメイドでフェイルデザインを発注する許可も下りるが、それはあくまでその個人に特化したものである。まさか、この波留のように自分が意図しない所で同じ顔の義体が存在し、それが目の前で別人として稼動されるなどと言う事態は、現在の世の中では許容されるべきではなかった。だからこそ、この義体を発見した際に、波留もそのAIも微妙な心境に陥ったのである。
 そんな事を考えていると、彼が見上げる波留の顔が、微かに赤くなっている事に気付いた。彼はそこから類推し、それを問う。
「…君は、少し怪我をしたのか?」
「少しですよ。軽い火傷ですから、大したものではないです」
 波留は微笑みを絶やさず答えていた。
 彼は指摘の通り、顔に軽い火傷を負い、そこが赤く炎症を起こしていた。しかし水ぶくれを生じる程ではなく、治療用テープなどで塞ぐ必要もない。そこに火傷用の薬品を塗布するだけに留まっている。おそらくは人間の治癒力と人工島における一般的な医療行為によって、数日中には完治するだろう。
 そんな彼の様子を確認するようにAIはその全身に視線を巡らせる。すると、波留が組む腕の先にある生身の手が包帯に覆われている事に気付いていた。そして良く見ると、蒼いシャツの袖口の一部も僅かに焼け焦げている。顔に垂れ下がる前髪なども、何処か焦げて縮れていた。
 それらの様子をAIは電脳内で総合し、検証する。すると、どう考えても、波留は炎を目の前にしたとしか結論付けられなかった。しかし彼の意識が一旦途切れるまでを回想しても、波留がそのような状況に陥る事は考えられなかった。
「何故君が火傷を負っている。君らは私が庇ったはずだ」
 そもそも波留が炎に曝されたならば、彼と一緒に居たはずのミナモはどうして無傷なのか――その疑問もAIの電脳には浮かび上がる。そんなAIの口から漏れた疑問に対し、波留は無言で微笑むばかりだった。
 そこに、背後から覗き込むようにミナモが口を挟む。彼女は波留の代わりに説明を試みようとした。彼女が直接見た光景は少ないが、それでも知る限りの情報を伝える。
「波留さんは、AIさんに燃え移った炎を消そうとしたんです」
「…そんな事をしたのか」
 AIは振り返り、ミナモを見てそう漏らしていた。信じ難いと言いたげな声だった。
「私はこの通り、義体を破損しても他の義体に換装すれば、その影響もなく通常動作出来る。それに対し、人間はそうもいかない。如何に軽傷であったとしても、痛みなどの影響はあるだろうに」
「だとしても、AIさんが燃えてるのを見てるだけなんて出来ませんよ」
 ミナモが困ったような声を上げていた。それにAIは首を傾げる。
「幸い、私には痛覚もなければ熱感知もない。炎に焼かれていても、苦痛などなかった。安心しろ」
「――そう言う問題じゃないです!」
 思わずミナモは大きな声を出していた。そんな彼女をやはりAIはぼんやりと見上げている。何故怒鳴られているのか、理解していないらしい。
 どうも議論は平行線となる様子だった。いいひとなのにどうしてこう、自分の身を護る事については無頓着なんだろう――少女の心中にそんな想いが去来する。
 そんな中、腕を組み沈黙していた波留が、ようやく口を開いた。俯き加減に口許に微笑みを湛えたまま、優しい口調が漏れる。
「…あなたは、御自分だけを護ればいいんですよ」
 その声に義体は真正面を向く。波留の方を見た。目を細めている人間の表情を視界に映す。――あの少女ばかりか、この彼までもがそのような事を言い出すのか。その義体はそんな事を思った。
「そうはいかない。私はAIだ。人間に奉仕する存在である以上、君達に迫った危険を座視して見過ごす事は出来ないのだ」
「だから、僕達を庇ったと?」
「ああ」
 義体は首肯した。それに、同じ顔を持つ男は、僅かにかぶりを振る。その口許に一瞬、影が掛かった。
「――………余計な事を」
 その瞬間、波留の口許から、驚く程低い声が発せられていた。はっきりとした口調で、彼はその言葉を口にする。そして彼はゆっくりとその腕を解いていた。
「…え?」
 それを聞きつけたミナモは、首を傾げた。波留のその声は、今までとはまるで印象が違っていたからである。
 この少女にとってそれは、まるで凄むような声だった。そしてそんな声を、波留が出す訳がなかった。彼女が抱く波留のイメージにはそぐわなかった――先程叫んだ時も、彼女は同様の思いを抱いているのだが。
 その時、波留の右手がさっと伸びた。その手は前方に伸び、自らの容貌を模した義体の襟元に行き当たった。
 包帯に包まれたしっかりとした骨格の手が、そこをネクタイごとがしりと掴む。その手に力が込められ、肘を曲げる。その動きに従い、義体の首がぐいと持ち上げられた。
「――波留さん!?」
 慌てた声がミナモの口から漏れる。しかし波留は彼女の事を気にも留めない。胸に左手を当て、前屈みになる。同じ顔を持つ存在に、その自分の顔を突きつけた。その瞳には、怒りにも似た感情が浮かんでいる。
「――本当に…何て事をしてくれたんだ、あなたは!」
 波留は声を荒げてそう叫んでいた。眉を吊り上げ、その眉間に深く皺を刻んでいる。襟首を掴むその指が音を立てた。
 AIは黙って胸倉を掴まれたままだった。只波留を見上げている。至近距離で静止している波留の右手からは手当した薬剤の臭いが漂っており、義体の鼻腔はそれを捉えている。しかし彼には嗅覚の設定が成されていないため、それを感覚として得る事は出来なかった。
 歪んだ波留の顔を見やる彼の表情は、何処かきょとんとしていた。やはり、どうして自分がこのように怒鳴られているのか理解が出来ない様子である。
 だから彼はいつものように淡々とした口調で、自らが抱える命題を繰り返そうとする。それこそが彼が抱える使命だった。全ての前にそれは優先させる。そう言う設定になっているのだから。それを理解しない人間が居るにせよ、それが彼の当然だったのだから。そこを人間には判って貰わなければならない。そう思っての行動だった。
「…私の事は構うな。私の役目は君達人間を護る――」
「僕は、それを咎めている訳ではない!」
 しかし、彼の台詞は波留によって遮られていた。
 そしてその波留が発した介入の言葉は、そのAIにとって全くの予想外のものだった。
「………え?」
 AIの口から短い声が漏れた。それはとても意外そうな声で、言わば素で発せられたような声だった。
 ――それを咎めているのではないのなら、一体彼は私の何に立腹しているのだ?そこを、AIは理解出来ていなかった。表情にも疑問が浮かんでいる。
 自らの顔が眼前で不思議そうな表情を浮かべている。波留はそれを目の当たりにしつつ、その胸倉を掴む手に力が篭った。自分の怒りの理由を理解していない、そのAIに本気で怒りを覚えていた。彼の怒りが内部で更に増幅してゆく。
 その嵐が彼の内面で吹き荒れ、そしてそれが遂に外部へと放たれた。
「――久島の脳核に何かあったら、どうしてくれたんですか!?」
 
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