彼の思考に、複雑な認証コードがいくつも流れてゆく。 完全な無音の暗闇に落ち込んでいた彼の意識に、文字列がちらつく。次いでそれらを読み込むような、単純で微かな電子音が聴覚に届いていた。まどろむような心地の中、彼はそれらをぼんやりと受け容れている。 ――起動チェックを自己診断機能で実行。 そんな明確な意味を持つ文章が、彼の思考に出現していた。彼はそれに促される。静かに命令されたように、彼は自らの状況を確認していった。自らの奥底にある存在から命令される感覚は、彼にとって馴染みである。 その感覚に身を委ね、彼は記憶野へのアクセスを完了する。そこに保持しているデータを確認して行った。 同時に、現在使用している義体の状態をチェックしようとする。AIたる彼は電脳に自らの存在を持ち得ているが、リアルで動くためには義体を用いる必要がある。意識が起動した時点で接続状態にある義体の動作環境をチェックする行為は、自動化されていた。 しかしそのチェックリストの冒頭で、彼は躓く。思考にブレーキが掛けられた。その使用義体の認証コードを取得した段階で、自らに登録されているデフォルトの情報と食い違いを見せたのである。 現在の彼に接続されている義体は、デフォルトとして指定されている義体ではなかったのだ。 しかしその使用履歴の登録情報は、彼の電脳内に別個に存在する。その義体は、彼にとってはサブマシンと呼べる存在だった。だから食い違った点も、別個に登録されていた情報と差し替えて自動的に対応してゆく。 正確に表現するならば、そのサブマシンを使用した経験があるのは彼自身ではない。それは彼が抱え込み保護しようとしている脳核当人の経験だった。彼はその人物から記憶と知識を継承しているため、その使用履歴も自分のものとしているのである。 チェックした結果、自らにインストールされている制動系プログラムには異変は見られない。義体のハードウェアの接続状況をチェックしてゆくと、右肩に異常が発見された。神経回路が断絶しているようである。回路自体は通っているのに、物理的に切断されているようだった。 もっとも、彼にはそれらをまともに動作させる制御系プログラムをインストールされていない。だから回路が切断状態にあっても、大した問題とは認識しない。掌が接続インターフェイスとなるメタルを利用するためには腕を動かすに越した事はないのだが、左腕さえ動作すれば充分だと彼は思っていた。 ともかく義体のチェックは終えたが、実働テストを行うべきである。ソフトウェアには異常が見られない以上、彼はゆっくりと瞼を上げていった。 瞼に覆われていた義眼が光を受け容れる。暗闇と電脳上での文字列を映し出していた視界に、リアルの情報が送り込まれてきた。瞳がその風景の情報を処理してゆく。薄ぼんやりとした視界は徐々に定まって来て、色もはっきりと浮かび上がってきた。 現在の彼は、メンテナンス用のベッドにその身を横たえていた。眼前に広がる天井には照明が明るく輝いている。その天井に、彼は見覚えがあった。 義体メンテナンスのためのベッドは、上体を起こすべくリクライニングしている。楽な姿勢を保ち、首筋に露わにした義体のソケット類には各種ケーブルが差し込まれていた。しかしそれらとの情報のやり取りも今は終え、後は取り外す段取りとなっている。 「――…私は一体、どうなったんだ」 現状把握と声帯のテストを兼ね、彼は静かに発言を試みる。その声は彼自身――デフォルトの義体で使用していた声と同一だった。どうやら声帯のセットアップも行われていたらしい。 「――あなたの使用義体が危険な状態に陥ったので、脳核を載せ換えさせて貰いました」 隣から声がする。彼はそちらに視線を向けると、白衣に身を包んだ義体技師がそこに立っていた。その技師は彼の記憶の中にある人物で、常々検査として彼に身を委ねている。その彼は白手袋を嵌め、前の台には様々な工具が揃っていた。それらを用いたのだろうと彼は思う。 技師が彼の隣に立ち、首筋に手を伸ばす。声を掛け、ケーブルの根元に手を掛けた。力を込め、接続箇所を引き抜いてゆく。 その技師は慎重な作業を続けてはいるが、引き抜かれた瞬間に彼は僅かな痛みを電脳に感じる。それは作業が手荒だからではなく、接続されている彼の電脳自体が不安定な状態に陥っているからだろうと判断した。 耐えられない痛みではないので、義体の彼は眉を寄せ、沈黙して堪えている。何本かのケーブルがそうやって彼から外されていった。 気分を紛らわせるように、彼は視線を巡らせた。すると、床の一角に置かれている担架に目が留まる。 その上には人間が横たわっているようだったが、それを覆うように青いビニールシートが被せられていた。しかしその半ばから、覆い切れていない箇所が現れている。 それは黒ずんでいる物体だった。一見して何か判らなかったが、かろうじて形を維持している数本の指から、彼にはそれが焼け焦げ炭化した人間の右手だと認識された。それが担架からずり下がって、手首から先を床に力なく落としている。 ――何が起こったのか。それを見た瞬間、彼は思い出していた。彼の電脳内に表示されている時刻を見るに、それが起こってから現在までに、1時間程度しか経過していない。だと言うのに様変わりしたものだと、彼は思わざるを得ない。 ――そうか。 私は確か、彼らを庇って弾丸を受けた。その義体は破損したばかりか炎上したのだ。 と言う事は、あの担架に乗せられているものは――。 彼はそれを考えつつ、視線を上げる。その先には、ガラス上の壁面があった。メンテナンスルーム内でも、処置室と待合室とを分断する壁である。 そこに映るものは彼の顔である。しかし今のそれは、普段の彼の容貌ではない。 久島永一朗の記憶と知識を受け継ぎ脳核を保持している彼は、その久島の義体をも継承していた。しかし今の彼の容貌は、その久島のものではない。 ガラス壁に映る「彼」は、黒髪の青年の姿をしていた。その長い黒髪は後ろで結ばれている。それを解いては、首筋のソケット類への接続に邪魔になったからだろう。 「その義体は右肩が破損していますが、後程補修します。今はとにかく脳核の移動を最優先したので…」 「ああ、判っている」 義体技師の申し出に、彼は頷いていた。ちらりと視線を右肩に落とすと、纏っている白いシャツが破け液体が滲んでいる。そのシャツの下にある人工皮膚には人間相手のように白い医療用テープが貼られており、手当めいた事がなされていた。 設定上はAIに過ぎない彼に対し、人間の義体技師は何故か丁寧に応対している。そして彼はその応対を受け容れ、上に立つ人間のように頷いていた。義体技師としては、今まで彼が使用していた義体が久島部長のものだったのだから、そのような応対になってしまっても当然だった。人間とは、自らの対応をなかなか変化させ辛いものである。 ――炎上し全壊した私の義体から早急に脳核を避難させるために、義体を選んでいる余裕はなかったのだろう。外部に派遣したこの義体を早急に呼び戻し、私へと換装したのだ。 様々な状況証拠から、そのAIはそう考えていた。そしてそれは人間達が下した判断と同一である。 そして、この分では暫くはこの義体を使用しなければならないだろうと認識する。だとすれば義体換装は一時的な措置ではなくなる。だから、一般流通ではなく、オーダーメイドのものを使用すべきなのだろう――それがたとえ、現実に生きる人間と同一の容貌であっても。 そんな事を考えつつ、彼はガラス壁を見やっている。 そしてその向こう側には、彼と同じ顔をした人物が立っていた。こちらを窺っている様子だが、その表情は強張っている。――自分と同じ顔をした義体が動作している光景は、やはり奇妙に感じるのだろうか。彼はそんな事を思った。 その波留の隣には、褐色の髪の中学生の少女が並んでいた。少女の髪にはトレードマークのリボンはなく、髪は伸ばされたままである。リボンの装飾を持つクリップの下で髪を結んでいたゴムは、彼女の元に戻っていない様子だった。 彼女は前のめりにガラス壁を覗き込んでいて、その顔は嬉しそうだが何処か歪んでいる。彼はその瞳に光るものを認めていた。 ――泣いているのか? 私が、泣かせてしまったのだろうか。 ――何時か何処かで、似たような事を考えたような気がする。不意に彼の電脳に、その想いが去来した。 ともかく、あのふたりは無事だったらしい。私は車椅子ごと、身を挺して庇い切ったらしい――ガラス越しの遠目での判断ではあるが、彼はそう判断していた。 そしてその事実に安堵した。彼は自らの義務を果たしたと考えたのだ。それならば、たとえ義体を全壊させたとしても惜しくはないと思っていた。自分は所詮パーツ交換で修復が完了する義体であるし、その意識は消失すべき「命」を持たないAIである。それと比較し、人間の生命とその生存に直結する肉体には代えられないのだから。 仮に、AIとしての自らが全て消失したにせよ、それでも人間の生命と天秤に掛けるまでもないだろう。それが人間に奉仕する存在として設計され構築されている、人工物たるAIと言う概念だった。 |