――目の前で、一体何が起こっているのか。 蒼井ミナモには、一貫してそれが全く理解出来ていなかった。 事件が色々と落ち着いて、改めて「AIさん」の傍に行って話していると、彼女は義体のあの割れた爪がまた気になってきた。だから今度こそテーピングしてあげようと、救急セットを病室へ取りに行こうとしたはずだった。 そうしたら、向かった入口付近に、覆面の男が現れたのだ。 その彼も正面にミナモが立っていたのは意外だったらしい。実際はある程度の距離を取った状態ではあるが、真正面から向き合ったために鉢合わせたような感があった。そのために、お互い呆然とする。 犯人さん達は、波留さんが全員捕まえたんじゃなかったの?――そんな事をぼんやりとミナモが思っていると、視線の向こうに立っている新たな覆面男が、ゆっくりと腕を上げて行った。その手には、レッド達が所持していたものよりもいくらか大きい銃があるのに、ミナモは気付く。しかし彼女はそれに反応を見せない。 その銃口が、自分に向けられてゆく。その光景を視界の先に見出した時には、突然横から突き飛ばされるように飛び掛かられていた。 いきなりの視点変更に、ミナモはまたしても戸惑う。そしてその時には、大きな音を伴い、今まで見ていた向こう側から輝く光が迫り来ていた。 その瞬間、顔を掴まれて抱き寄せられる。その逞しい胸に押し付けられていた。庇うように抱き締められた事は理解出来る。その彼は、身体を捻り向きを変えたのも悟っていた。強い腕の力を感じる。 2度目の轟音を耳にした頃に、身体は床に着地していた。抱き竦められた後には特に飛ぶ方向が変化してはいない。そのままの勢いでふたりは冷たい床に落下していた。 それでもミナモはその相手に庇われており、最初に落ちたのは彼の方だった。彼女は直に床に叩き付けられてはいない。着地の勢いのまま、抱き締められた状態で床を何度か転がり、勢いが殺される。 ようやくその動きも止まり、ミナモは抱き竦められた腕の中で身じろぎしていた。仰向けに押し倒されたような格好で、後頭部に床の感触を覚えつつその顔を振る。解いていた髪が顔や首筋に纏わりついて、何だか気色が悪かった。 上に圧し掛かっていた青年が、両腕を床に着いて肘を伸ばす。ミナモから身体を引き剥がしていた。その少女に対し、何事か気遣うような言葉を投げ掛ける。しかしミナモは状況を把握出来ていないため、それを曖昧に受け流していた。顰めた顔で、ようやくその瞼を細く開く。 その時彼女が見上げたものは、両腕を床に着いて上体は引き剥がしているものの、相変わらず自身の上に跨っている波留の姿だった。その状況にぽかんとするが、次の瞬間にはかあっと体温が上昇する。――何でこんな事になっているんだろう。そんな事を思った。 しかし少女が場違いにそんな事を思った頃、波留はミナモを見ていない。首を巡らせ、背後を振り返っていた。その先にあるものを呆然と見ている。 ミナモには、波留が見ているものの詳細は、死角になっていて判らない。彼は自分の顔に、照り返しのような紅い光をちらつかせていた。それは炎と呼べるようなもので、実際に何かが火花を立てるぱちぱちと言う音が、ミナモにも微かに聴こえてきていた。 一体何だろうと、ミナモはその音に疑問を抱いた。床に押し倒された状態のまま、首を伸ばしてその先の視界を確保しようとした。 その瞬間、波留が勢い良く立ち上がっていた。今までの沈黙が嘘のように、堰を切ったように動き出す。ミナモの方を省みる事もなく、踵で床を蹴る。ミナモはその伸び上がる脚の滑らかな動きと、翻る長髪の流れを視界に捉えていた。 そこに、彼の全身から、絶叫が迸っていた。 彼は自身の親友の名を叫んでいた。声帯に大きな負担を掛けるような大きな声が喉を突き抜けている。 ミナモは、そこまでの絶叫を波留の口から聴いた事はない。彼女にとって波留とはいつも穏やかで優しい人物であり、叫ぶと言う行為自体が一切似合わないイメージを抱いていた。その彼が今、このような常軌を逸した喚き声を上げているのである。それ自体に、彼女は竦んでしまう。 少女は床から身体を僅かに起こしつつも、やはり床に手をついた状態で頼り切っている。頭から垂れる髪が床に届く程度の位置に、その顔を上げていた。呆然とその先を見やる。 そこには車椅子が停車していた。それはミナモにとってとても見覚えがある機種である。しかし、そこに波留は駆け寄り、車椅子の向こう側に両手を叩き付けていた。そこには人間が座っているはずで、まるで背後から頭を叩いているような印象である。思わず苛めないで下さいとでも言いたくなる風景だった。 しかし、どうも様子が変だった。詳細が見えないミナモにも、それは充分判っていた。 焦げ臭い臭いが辺りに立ち込め、ぱちぱちと言う音が響き渡っている。そして車椅子の上部には、陽炎のように空気が揺らめいていた。その合間に、紅く色付いた大気も垣間見えたような気がする。 そう言えば――と、ミナモが車椅子の足元に視線を転じてみると、そこには白い液体が水溜まりを形成している。それは床に広がってゆく。 ミナモの視界からは、車椅子は背もたれ部分を向けている。だから、そこに収まっている人物の姿はあまり良く判らない。その視界にふと動きを見出した。彼女はそれに反射的に焦点を合わせる。 車椅子の右側に位置する肘掛けには、腰掛けている人物がスーツを纏った右腕を置いていた。しかしそれが、ずるりと力なくずり落ちる。車椅子側面にある車輪に沿ってその手が揺れた。 そしてその右腕は、満遍なく炎に包まれていた。垂れ下がった腕から燃え尽きたスーツの生地がぼろぼろと落下してゆく。そしてその先にある手も焼け焦げてゆき、筋肉が収縮して指が丸まっていた。 「――…AIさん?」 きょとんとした声が、ミナモの口から漏れる。目の前の光景をどう解釈して良いのか、少女には判らなかった。 そこに、白煙が巻き起こる。車椅子の真正面から、彼女の父が消火剤をぶちまけたのだ。その薬品が生じさせている霧状の白い気体に彼女の視界は妨げられる。今まで漂って来ていた焦げ臭い臭いも、薬品特有の強い匂いが覆い隠そうとしていた。思わず彼女は、新たな刺激臭に口許と鼻を手で押さえる。 そんな時、唐突に、ミナモの肩に何かが掛けられていた。彼女はその肩に視線を落とした。顔を傾け、右手を口許から外してそのまま肩に触れる。そこにあるのは、白衣だった。そしてその傍らには、白衣を掛けてきた人物が立っている。 「――…君は見ない方が良い。ここに居て」 病棟所属の義体技師が、ミナモに白衣を掛けつつそう話し掛けて来ていた。彼は気遣うような顔でミナモを見ている。メディカルセンターの制服のままで立っており、彼は自らの白衣をミナモに掛けた事になる。 そんな技師を、ミナモはぼんやりと見上げていた。少女には、状況をいまいち把握出来ていない。そんな彼女に、技師は視線を合わせて頷いた。電理研からの依頼を経てそれなりに顔見知りになっていた間柄のため、僅かながらも安心感が去来する。 それから技師は立ち上がり、小走りに車椅子へと歩みを進めていた。その周辺には取り囲むように波留と衛が立っている。見るに、未だに取り乱している波留を衛が宥めている様子だった。 そこに技師が合流する。車椅子の背面側に立ち、その奥に手を伸ばしている。その手の位置からして義体の首筋にかざしているようだった。その付近からには燻る煙が僅かに立ち昇っているが、ミナモには良く見えない。 「――ミナモ!」 唐突に自らを呼ぶ声がする。少女はそれに振り返った。そしてそこに見える光景に唖然とする。 ミナモの視線の先には、彼女の兄が歩いていた。必死な表情を浮かべ、彼女に声を掛けている。 しかしミナモが唖然としたのは、そう言う状況からではない。ソウタは歩く度に肩を大きく揺らしていた。そしてそれに伴い、何かを引き摺る音がする。それは、彼が右足を引き摺っていたからだった。右足が利かないのだから、無理矢理に歩けばそのような状態になるのは当然である。 「大丈夫か!?怪我してないか?」 そんな風にどうにか歩みを進めているソウタは、ミナモにそう叫んでいた。しかしミナモからしてみたら、そっちの方が大丈夫なのかと訊きたくなる。 「…ソウタ、杖はどうしたの!?」 ミナモは慌ててそう問い掛けていた。肩に掛かる白衣を掴み、ソウタに自ら駆け寄る。ふら付く兄の身体をそっと抱き留めていた。 壁際には杖が転がっている。それがその場に落ちたのは、ほんの数分前の出来事のはずだった。 |