「――波留さん、離れて下さい!」
 その叫び声と共に、炎上する車椅子に向かい走り寄る足音が聞こえてきた。それは革靴の音で、慌しい。波留やソウタが居る地点とは更に別の方向からの足音である。
 炸裂弾の発射時と命中時の2回、あれだけの音と光とを発したのである。席を外し、別の重要な作業に没頭していた処置室の人員達の意識も、そちらに向けるには充分だった。連続した轟音に気付き顔を上げたら、彼らにしてみればガラス壁の向こう側で久島の義体から左腕が吹き飛ぶ様を目撃した事になる。
 蒼井衛は、その光景を目にした直後には茫然自失に陥っていた。しかし激しい衝撃を受けた久島の身体に炸薬が着火し、それが衣服の各所に引火して炎が全身に回ってゆく様子がガラス壁や彼の眼鏡に照らし出されてゆくと、我に帰る。
 彼は処置室を見回し、壁際に設置されていた消火器に気付き、飛び掛かるようにそれを引っ掴んだ。そしてその勢いのままに処置室を飛び出していた。部屋の外には彼の息子と娘が居る。それに巻き込まれたりしてはたまらない――その想いが無意識のうちに広がっていた。
 衛が処置室の外に躍り出た時には、ソウタは発砲した男に飛び掛り押し倒し、その首を絞め上げていた。息子のひとまずの無事を確認し、次は娘はどうなっているかを把握するために辺りを見回す。すると、ミナモは燃え盛る車椅子の傍で起き上がっていた。倒れた状態から顔だけを上げ、呆然と車椅子の背を見上げている。
 そしてその傍らには、黒髪の青年が立っていた。彼は必死に両手を伸ばし、車椅子に収まっている義体の頭部を払っている。必死の形相で炎を消そうとしている様子だった。しかしその効果は殆ど表れていない。
 そこに衛は駆け寄った。波留に呼び掛けつつ、消火器の噴霧ノズルの先端を、炎上する義体へと向ける。
 上体を曲げ、車椅子に腰掛けてはいるがうずくまるような体勢のまま炎に包まれているその身体へと、衛はノズルの引き金を引いた。途端、勢い良く白く煙る気体が噴き付けられる。
 それは気化タイプの消火剤であり、空気中に解放された瞬間に液状化して目標へと降り掛かってゆく。そうやって炎を包み込み、酸素との結び付きを阻害しようとしていた。
 2061年現在の技術をもってしても、人体にはあまり付着させない方が良い類の薬剤である。しかし消火器を抱える技術者の目の前で燃え上がっているのは全身義体だった。その炎の勢いは酷く激しい訳ではないが、このまま放置していても自然鎮火に至るには時間を要しそうだった。
 そして何より、波留がその義体を焼く炎を素手で消そうとしていたのを看過出来ず、衛は遠慮なく義体に対して薬剤を叩き付けていた。無論、波留がその影響を受けないように、叫んで忠告した上での実行である。
 薬剤が作り出す白い煙幕に煙る向こう側に垣間見える波留は、その黒髪の影の位置から考えるに咄嗟に一歩引いた様子だった。だから薬剤を丸被りはしていないと思われた。
 突き出されたノズルから数秒のうちに、一気にボトル1本分の薬剤が放出される。火事を延焼させないためには、発火を見定めてから鎮火させるまでに如何に時間を浪費しないかが勝負となる。だからこの消火器も短時間で最大の攻撃力を出し切るように設定されていた。
 その数秒間も衛はノズルを振り、義体に満遍なく薬剤を振り掛けるのを怠らなかった。その箇所には、床に落ちている千切れた左腕も含まれている。
 如何に薬剤が強力でも、それが付着しなかった箇所には効果が薄い。炎が生み出すものとはまた別種の、もうもうとする白煙に衛は怯まず、消火器をきちんと使用していた。
 やがて、そのノズルからは何も吐き出されなくなる。そうなった後も、衛はノズルの引き金を引いたままだった。指が強張り、動かない。構えも解かず、全身を硬直させた状態の衛の眼前では、白煙が拡散し徐々に薄れて行っていた。飛び散った微細な薬剤が彼の眼鏡も曇らせている事に気付き、反射的に手の甲で拭う。
 義体は未だくすぶりを見せていたが、全身に鎮火用の薬剤を満遍なく被ったために、それ以上の延焼は進む様子がない。燃えて一部の箇所がぼろぼろになったスーツやシャツは焦げ、頭髪は焼けてばさばさになっている。
 そして露わになっている顔の皮膚も炎に晒された具合によって紅くなったり黒く炭化したりと様相が違う。その肌にはひび割れが走り、白い液体が滲み出していた。
 そんな彼の全身のあちこちには、覆い隠すように、白い消火剤が降り掛かっている様が目立っていた。炎が生み出していた熱気が未だに揺らめき、薬剤が含む水分を蒸発させる事で薄い白煙をちらつかせている。そしてぐったりと項垂れた状態の義体からは、様々な箇所から剥離してきた黒い破片が少しずつぼろぼろと落下し、床に作った循環液の白い水溜まりに降り注いでいた。
 炎が鎮火しても、義体は起動しようとはしない。そしてそこに、新たに白衣の人物が駆け寄って来ていた。
 
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