自らの隣に立っていた年上の友人が、黒髪をなびかせて飛ぶように走り抜けてゆく。杖を突いている身であるソウタには、そんな瞬発力溢れる対応は出来なかった。 しかし彼の眼前に広がる光景を把握するのは一瞬だった。このメンテナンスルームの入口には、取り零していたとおぼしき覆面の犯人が現れ、ショットガンを構えている。そして室内へとその銃口を向けていた。 その反抗に、最早意味などないはずである。仮に状況を把握しておらず、他の仲間が健在と思い込んでこの部屋に現れたにせよ、その男には囚われの仲間達の姿が目に入ったはずだった。彼らの敗北で事は終結したのだと、理解出来ない方がおかしい。 しかしその男は、室内に居る人々に対し銃口を向け、あろう事か発砲しようとしている。負けを認められず暴発したか、それとも悪足掻きか――ソウタにはどちらとも解釈出来た。 彼らは見るからに、理知的なリーダーに統率されたプロ集団だったためにどちらも考え辛いのだが、人間は打算のみで動く訳ではない。それはレッドが仲間への義理立てなのか、自らの脳の初期化を企てた事からも判る。 人間とは感情で生きる人間であり、荒事とは人間を苦境へと追いやる。その時彼らは何をしでかすか判らない――それを、ストリートファイトに身を置き、調査員としての任に就いていたソウタは体験している。 ともかくソウタは、ミナモの方へは波留が飛んで行った事を知っている。ならば自分は他の事をするべきだった。 かくして彼は波留とは別方向へと飛ぶ。無傷の左足で思い切り踏み込み、床を蹴った。前傾姿勢のまま、波留同様にすっ飛んでゆく。そして彼の立っていた場所には杖が残され、転がった。 勢いのままに床に踏み込み、触れた右足に激痛が走る。しかし彼はそれを無視し、その踵でも床を蹴り付け、勢いをつけて滑るように駆け抜けた。そして伸ばした左足が3歩目を蹴り出す。 その頃には彼は背後に轟音を聴いていた。何処に着弾したのか、振り返って確認はしない。その光景を、把握したくはなかった。そんな気持ちを誤魔化すように彼は絶叫する。 姿勢を低くして飛んでいた彼には4歩目は必要なかった。その時には既に目標へ向かい飛び込んで行ったからである。 ソウタは、波留がミナモに対したのと同様に、発砲した覆面の男に向かって突っ込んでいた。 しかし波留はあくまでもミナモを護ろうとしたのに対し、ソウタは逆である。彼は肩口を男に向け、腕を曲げて身体に引き付ける。出来る限り勢いが分散しないような体勢で、男に側面からタックルを掛けていた。 銃身をソウタに向けるのに、彼は戸惑った。絶叫して突進してきた男の様子に気を取られ、怯んだのもある。 その隙に飛び込まれ、入口付近で豪快に倒される。怯んでいる隙をソウタは見逃さない。荒々しくその銃身を掴み、奪い取る。そのまま投げ捨てた。 ともすればショットガンが暴発しかねない程に乱暴な扱いである。しかしそれは音を立てて床を滑ってゆき、沈黙した。 そのままソウタは寝技に持ち込み、背後から両腕を首筋に掛けた。腕を絡ませて引き、頚部を圧迫する。振り解こうと暴れる男をきっちりホールドして、離さなかった。 ――頚動脈に入った!さっさと諦めて落ちろ! ソウタは相手に立ち上がられると、自分の方が不利になると判っている。現在の彼は右足が利かず、習得している格闘技術が殆ど使用出来ない立場となっていた。そのために、激突して倒したままに抱き着き、背後から絞め落とそうとする。これならば現在の彼でも、腕の筋力と力の配分で充分に格闘術を発揮する事が可能だった。 果たして10秒も経過しないうちに、足掻いて暴れる男が急に大人しくなっていた。振り上げた腕がその場に落ち、強張った身体から力が抜けてゆく。ソウタの細身ながらも鍛えられた腕で頚動脈を圧迫されて脳貧血に陥り、身体が遂に限界を迎えて気絶して行った。 ぐったりとした男の身体が、ソウタには重く圧し掛かってくる。ひとまず彼はそこから抜け出すように腕を取り、後ろ手に纏めてうつ伏せにする。気絶しているうちに縛り付けようとした。 そこに、絶叫が届いた。 「――久島ああああああああああああ!!」 それは、波留が腹の底から搾り出すように叫んだ声だった。ソウタには波留の叫び声など、今までの半年間の付き合いで聴いた覚えがなかった。その意外性と、絶叫自体に対する反射で、ソウタは顔を上げる。真正面を見据えた。 そして、彼は愕然とする。広がる光景に、息が詰まった。思わず腕から力が抜けるのを感じた。それは全身へと広がってゆき、男の背に馬乗りになったまま座り込んでしまう。 若き統括部長代理が敬愛してやまない「先生」が、車椅子に腰掛けたそのままの状態で、炎に包まれていた。その勢いは業火と呼べるものではないが、確実に全身に燃え広がっている。 久島の義体はぐったりと項垂れていて、自らを包む炎に一切反応を見せない。その髪にも炎が引火し、顔の皮膚も焦がしていても身じろぎもしない。 ソウタが居る付近にも、人工物とは言え衣服や肉や髪が焼け焦げる厭な臭いが伝わってきていた。青年は、思わず掌で口許と鼻を押さえる。その間も彼は両眼を見開き、正面を只見据えていた。 義体は炎に包まれているだけではない、右肩から胸に掛けての部位を大きく穿たれ、吹き飛ばされていた。スーツを纏ったままの状態でその箇所を抉り取られ、激しい損傷を受けている。 千切り取られた衣服が被さっている傷口からは白色の循環液が漏れ出していたが、炸薬の焼夷効果により衣服が発火した後には傷口も焼かれてしまったのか、液体の流出も激しいものではなくなっている。それでも炎に紛れて車椅子を伝い、ぽたぽたと床に大きな染みを作っていた。 車椅子から少し離れた位置には、左腕が吹き飛ばされていた。その腕には上腕部が存在しない。直撃を喰らい、パーツそのものが跡形もなく消失してしまったのだろう。その肘から下が、部位に値する衣服を伴ったまま、床の上でやはりくすぶりつつも燃えている。 ショットガンから近距離で射出された75口径の炸裂弾をまともに喰らってしまえば、フレーム強化型の軍用義体でない限りこのように大きな損傷を受けるのは当然の話だった。 それも義体だから、単なる損傷で済んでいる。人間であれば、これだけの部位を消失すれば即死しているだろう。それを思うと、ソウタは背筋が凍る思いだった。 着弾した地点を吹き飛ばし、その爆風を受けた車椅子の背もたれが大きくへこんでいる。そしてその背面の向こう側には、長髪をなびかせて炎を払おうとしている人物が存在していた。 顔を歪め、必死の形相の波留がそこに居る。 青年の黒髪が炎に煽られて大きく浮き上がる。彼は素手で義体に腕を伸ばし、項垂れている頭を払った。人工頭髪を火種に炎上しているその後頭部を数度掌ではたくが、火の勢いは収まりそうにない。 それよりも、彼は炎の中に生身の肌の手を突っ込んでいる事になるのだが、当人は熱さを全く感じていない様子だった。しかし波留はその義体と違い、紛れもない生身である。軽度であっても火傷を負うのは必至だった。 |