彼の義体には感覚が殆ど備わっていない。そして現時点では、衝撃に備え、備わっている僅かな感覚すらも切断していた。 それでも着弾の衝撃に、視界が大きく振られる。自らの意志ではなく顔が振られ、その勢いが速過ぎて焦点を合わせる事も出来ない。 彼には勢いのままに天井を見上げ、すぐに叩き付けられるように床を見る羽目になった自覚はあった。その後も大きく首が振られる。その間にも自らの意志に拠るものではない四肢の感覚の断絶を覚えた。着弾の衝撃で首が揺られた勢いにより、頚椎が砕けたのだろうと把握する。 ――人間なら、即死か。 その最中、彼は冷静にそう推測していた。彼はAIであり、頚椎を損傷しても神経系が断絶するだけである。人間とは異なり意識は喪失しないし、「生命」にも別状はない。首から下への接続を失いその義体を動作出来なくなるが、電脳を別の義体に乗せ換えたら全く影響なく通常起動出来るはずだった。 彼は車椅子の車輪を電脳制御して空転させ、着弾の勢いを殺す。絶対に背後へと影響を与えないように気を配った。 激しく揺れる視界の中、影が横切る。床に何かが落下するのを彼は認めた。定まらない焦点をどうにかそちらへと向ける。 彼の足元から若干離れた先の床に、宙を舞っていた物体が着地する。それには紅とグレーめいた色を感じるが、視界の補正を待った。 それは、衣装ごと引き千切られた、人間の腕だった。そしてそれは彼にとって見覚えがある形状である。 しかしそれは肘から掌までのみであり、上腕部は存在しない。無造作に床に落ちたそれには、くすぶるようにグレーのスーツ地に炎が引火していた。それは業火ではないが確実に燃え盛ってゆき、肌を露わにしている力ない手も焦がしている。焼けてゆく筋肉が収縮しているからか、指が曲げられてゆく。その先にある爪のひび割れは、彼には最早視認出来ない状態だった。 そこに存在しない上腕部はどうなったのか。身体に付属したままなのか、それとも着弾の衝撃で消し飛んだのか。感覚を失った彼には、それ以上の推測は不可能だった。 冷静に思考を巡らせていた彼だったが、焼け焦げてゆくその手の袖口に、黒いダイバーウォッチを発見していた。それは焦げる袖口共々に揺らめく炎に晒されている。 その事実を認め、彼は目を見開く。炎は腕に纏わりついたままの衣服に完全に燃え移り、手首に嵌められたそのダイバーウォッチも巻き込んでいた。その様子に、思わず彼は喉が動いた。掠れた声が口許から発せられる。しかしそれは、明確な音声にはなり得ていなかった。 ――このままでは、あれが、壊れてしまう。 その言葉が電脳内を駆け巡る。そして冷静であったはずの彼の思考に、言いようのない不安が襲来していた。 私はあれを、預っているんだ。護らないとならなかったんだ。 その約束を反故にしてしまうのか?私は人間に奉仕すべき存在だと言うのに――? 彼は顔を顰める。思わず縋るように右手を伸ばそうとするが、四肢から感覚が失われている以上、無駄な試みだった。 そして燃える左手を見ている視界が狭くなってゆく。隅の色が消え、視界そのものに電光めいた光が走り始めた。それは主に視界の左側からもたらされている。彼は鬱陶しく思い、目を細めようとした。 その時、彼は左眼を伏せても視界に変化が見られない事に気付いた。電脳で機能チェックを行うと、既にその眼球は機能を停止していた。何らかのハードウェアの異常が発生しているらしい。 そしてそれを自覚した時、彼は自らの視界に炎が揺らめいているのを知った。先に落ちている左腕だけではない。視界の隅に見える胸元に炎が見える。そして額から垂れてきている髪からも、火の粉を含んだ塵が落ちてきていた。 着弾により引き千切られた左腕が、床で燃えているのだ。自身の身体を包む衣服も発火していてもおかしくはない。そしてそれを火種として、自らの身体そのものが炎に包まれて焼かれている――その可能性に、彼はようやく思い至っていた。 そうなると、彼は「生命」の危機が迫っている事に気付かざるを得ない。左眼が機能しなくなった理由が炎に包まれた事による熱の影響ならば、眼球に近接している当の電脳もその高熱に晒されている事になる。 ――熱で、電脳が破損する可能性が生じてきた。 そうなれば、バックアップを持たない私と言う存在は、そのまま消失する。初期化されるのと同様の結果となる。 それを悟った段階では、データ保全のために自動的にAIがシャットダウンを開始してゆく。熱暴走する前に起動自体を停止すれば、後程再起動して復旧出来る可能性はある。しかし外殻越しに伝達する熱がそのまま物理的にAIを焼いてしまえば、保持したデータも共に消えてしまうだろう。 彼の意識は様々なプログラムが複合的に起動する事で構成されている。そのプログラムが続々と停止していけば、それに従い意識も薄れてゆく。霞む視界に炎がちらつく。動かない身体をそのままに、彼は砕けた首を項垂れていた。 自分はこのまま終わってしまうのか、そうでないのか。彼にはその先を把握出来ない。再び目覚めるかは不明だが、ひとまずの眠りを受け容れようとした。そこに横たわるのが、占拠組に首を差し出そうとした時と同様の諦観だとしても。 その刹那だった。 「――久島ああああああああああああ!!」 その絶叫を、彼は生き残っていた聴覚で確かに捉えていた。普段は落ち着き払っていて優しいはずの人物が発した、感情を剥き出しにしたその声に、彼は驚きを覚えた。 そして、その感情が己に向けられている。 その事実に、彼は確かに満足を感じていた。 ――AIは、人間に奉仕する存在だ。その私が身を挺して人間を護り抜く事は、当然の義務だ。 だから私は、彼らの前に飛び出したのだ。それは反射的な行動であり、AIが絶対遵守すべき設定から導き出された行為だ。 だと言うのに、護るべき大切な人間に、このように感情を向けて貰えるなど。 AIとして、これ程までに、嬉しい事があるだろうか? 嬉しい――そうか。これが歓喜か。いまわの際に、私は初めて理解した。 あの少女が言うように、これで少しは私も「人」足り得たのだろうか? 彼は目を細めた。焼け焦げてゆく顔の皮膚をどうにか制御して、口角を持ち上げる。 僅かながら、彼は微笑を浮かべていた。 そしてその瞬間、久島永一朗の知識と記憶を継承していたAIの意識は、唐突に断絶し暗闇へと消失した。それは、シャットダウンの最中のカットオフだった。 |