波留がソウタに呼ばれた先は壁際であり、そこに寄り掛かり座り込んでいるのは覆面の男だった。彼はがっくりと首を垂れ、脱力している。両手は自身の袖を伸ばされて結ばれ、後ろ手に纏められていた。首筋には金属製のデバイスが装着されたままである。 波留自身は初対面ではあるが、彼を模した義体を通した視界からは見知った相手である。ソウタもカメラ越しには交友を深めた間柄だった。 占拠組は全員覆面を装着しているが、判別がつかないようにしているのはその顔のみである。個人の特定自体は、彼らが服装を一致させていないために可能だった。そして波留達は、彼が「レッド」と名乗っていたリーダー格の男だと知っていた。 その周辺を取り囲むように立っているソウタと白衣のスタッフ達に会釈し、波留はレッドの前に屈み込む。失礼と声を掛けて右手を伸ばし、彼の首筋のデバイスに触れた。その間にも他のスタッフが彼の覆面を掴み、上へと引き上げる。その顔を露わにした。 首筋のデバイスへの干渉と、覆面を脱がされて顔が引き上げられた感触でレッドも目を覚ましたらしい。軽く顔を震わせ、ゆっくりと瞼を上げてゆく。 覆面を取り払ったレッドは、褐色の髪を短く刈り込んだ壮年の男だった。その容貌からアジア系で、年の頃は40代と思われる。顔に刻まれたいくつかの傷から、かなりの修羅場をくぐって来たのだろうとの印象を与えた。 もしかしたら軍人崩れなのかもしれない。2061年現在においても、中国大陸を始めとしたアジアの各所には政情不安な国家や都市が存在するのだから。 「…ああ、あなたは波留真理か。それに、統括部長代理もお揃いで」 目覚めた視界の先に垣間見えたふたりの名を含んだ台詞を、レッドは英語で呟いていた。囚われの身となっている現状に、特に取り乱す様子もない。その辺りからも彼の胆力は感じられた。 悪びれた様子もないレッドに対し、ソウタは顔を歪める。思わず激昂した感情を叩き付けそうになった。そんな彼の肩に、衛がそっと手を置く。宥めるように顔を覗き込んでいた。 そんな親子関係を、レッドは気にも留めない。正面に座っている波留に視線を合わせた。互いに持っているグレーの瞳で視線を交わし合う。 「――実は、お嬢さんから端末を借りたままなんだ。返してやってくれないか?」 レッドが口にしたのは、そんな台詞だった。その態度に波留は一瞬口を軽く開け、ぽかんとする。動揺していない囚われのリーダーに呆れるが、実際そこまで変な要求でもない。 波留は無言で頷き、レッドの顔を見たまま手探りで、示されたジーンズのポケットに手を突っ込んだ。薄く四角に膨らんだその腰のポケットから用心深く中身を取り出す。そこから引き出されたのは、波留にとっても馴染みがあるピンク色のペーパーインターフェイスだった。 その様子を見ているレッドは更に続けた。 「最後に、お嬢さんにも非礼を詫びた上で挨拶したいんだが…無理か?」 微笑みすら浮かべて彼はそんな事を言う。それに、波留は端末を手にしたまま、眉を寄せた。その頭上から、不意に静かな声が届いていた。 「――申し訳ありませんが、好ましいとは思えない大人と、娘の会話を許したくはありません」 ふたりの会話に乱入してきた声に、波留とレッドは視線を上げる。その先には衛が立っていた。 彼は眼鏡を光らせ、神経質そうな顔に更に皺を深めている。台詞を発した後には口がきっちりと結ばれる。反論を許さないような表情だった。ソウタの肩に手を置いたままだったが、その手には力が込められていると息子は悟っていた。静かな態度ではあるが、父もまた静かな怒りを抱えていると把握する。 レッドは衛を見上げていたが、その瞳に納得したような光を映し出す。記憶を辿った末に、軽く頷いた。 「…そうか、あなたがお嬢さんと統括部長代理の父親だったな。あなた方には本当に申し訳ない事をした。悪かった」 彼はそんな台詞を口にしつつ目礼した。拘束された体勢ではあるが、ある程度の礼節をもって謝罪を行う。 その態度に、衛は面食らっていた。怒りを向ける矛先を見失いそうになる。程度の差こそあれ、ソウタも同様だった。 そしてレッドは波留とソウタとを見比べるように視線を送る。片眉を上げ、述懐するような台詞が彼の口から漏れた。 「あなた方を甘く見ていたつもりはないんだがな。我々には単純に実力が不足していたんだろう。人工島の神の周辺に控える人々は、その立場に相応しいだけの実力者だった訳だ」 何処か爽やかな印象すら感じさせるその犯行グループのリーダーの言葉に、波留もどんな顔をして良いのか判らなくなっていた。どうやらこのリーダーにとっては、この事件は終わってしまった事らしい。だから、わだかまりも感じない様子だった。 それは調子の良い態度だと、波留としては思ってしまう。今まで人質達を拘禁し久島の脳核を奪取しようとしたくせに、自身が囚われた途端にこのような態度を取るのだから。 しかし犯人側も占拠時に不用意な暴虐は行っておらず、一貫して紳士的な態度を取り続けていた。それは波留達も知っている。だから攻守交替した今、一方的に怒りに任せて拳を振り下ろすとか、そう言う事はしてはならないと自重しなくてはならなかった。 「――波留真理。ひとつ、あなたに尋ねてもいいだろうか?」 「何でしょう」 レッドに静かに問われ、波留は怪訝そうにそれを促した。表面上は穏やかな対応を取る。 「あなたが久島部長の脳核に刺したメモリースティックには、本当に初期化プログラムがインストールされていたのか?」 その問いを耳にして、波留は軽く瞠目していた。口を半開きにする。俯き、右手を口許にやる。軽く首を傾げた後に、視線をレッドに向けた。 「――…あれには…僕ってそんなに手段を選ばない人間だと皆さんに見られているんだなあと、内心ショックでしたよ」 困惑気味のその台詞を受け、今度はレッドの方が瞠目する番だった。驚いたらしく、軽く息を吸う。そしてその後に、喉の奥で数度笑い声を上げた。僅かに肩を揺らす。寄り掛かる壁に背中が擦り付けられた。 「…そうか。そう言う事か。すっかり騙されたよ。あなたには詐欺師の素質があるな」 本気で笑うレッドの態度に、波留は眉を寄せた。傷付いたと言わんばかりの視線を向ける。 しかし彼のあの行為に騙されたのはレッドばかりではない。その証拠に、座り込んでいる波留を見下ろす背後の人々も、その背に微妙な視線を向けていた。 何よりあの行動は、周辺の全員を騙さなくては効力を発揮しない。それだけの事をして大成功を収めていると言うのに、何故傷付くのか。――レッドはそんな光景を視界に入れ、ますます笑いの感情を刺激されている。 目の前の犯人に笑われ、波留は憮然とした表情を浮かべた。口許を拭うように擦り、離す。振り切るように言葉を発した。 「――それでは、僕からも質問させて頂きますよ」 その波留の言葉に、レッドは笑うのを止めた。とりあえず身体の揺れを止め、表情を徐々に引き締めてゆく。目許に浮かぶ和むような雰囲気がやんわりと消失して行った。 「依頼の詳細や依頼人当人については、守秘義務があるので残念ながらあなたには話せない」 レッドが述べたその決まり文句のような台詞に、波留は不思議そうな表情を浮かべていた。「守秘義務」と言う概念自体には波留自身も馴染みがあるが、依頼自体が頓挫した今もそれを護ろうとするとは意外だったのだ。その気持ちのまま、問う。 「今更そんな契約を守るおつもりですか」 「そうしないと今後の営業に差し支えるし、私に付き合ってくれた仲間達にも申し訳が立たないのでな」 波留からの問いに、レッドは淡々と答えていた。そこに迷いはない様子である。そんな犯人を、波留は見据えた。瞳から感情を読み取ろうとする。 「…こうなった以上、あなたもお仲間も、二度とそちらの社会には戻れないと思いますよ。我々の社会でも充分通用する能力をお持ちなのですから、是非更生して下さい」 波留は、レッドの言葉に含まれた内容で、前者を突いていた。理詰めの箇所を指摘し、プロとしての判断に委ねて意見を変更させる示唆を行う。しかし後者を覆すだけの指摘を行う事は出来なかった。それは感情的なわだかまりであり、それを解きほぐす事は、相手が人間である以上ほぼ不可能だからである。 そんな波留に対し、レッドは口許に笑みを浮かべた。目を細めて言う。 「電理研には脳だけ刑務所ってのがあるんだろ?だと言うのに、そんな甘言を弄しておいて、本当にリアルに復帰出来るのか怪しいな」 「――それは、無責任な都市伝説だ」 唐突に口を挟んできたソウタに、レッドは視線をやった。本気で怒気を露わにしている統括部長代理を目の当たりにする。それに、レッドはおどけるように肩を竦めた。冗談の通じない相手だと言わんばかりに溜息を漏らす。 そんなふたりの状況を、波留は横目で見やっていた。激発しそうなソウタを抑えるべく、話を戻しつつ発展させてゆく。 「あなたに選択の余地はありません。いざとなったら僕が直接あなたの記憶から、情報を抜くまでです」 「シルバーからは既に情報を抜いているんだろう?」 「…ええ」 波留としては脅し文句を口にしたつもりだった。しかしレッドは全く動じない。あっさりと問いを投げかけられ、波留は逆に口篭っていた。僅かな沈黙の後に、首肯する。 メタルダイバーである波留が、同じくダイバーであるシルバーを倒していない訳がないとレッドは判断したのだろう。そしてそのような脅しを用いる以上、シルバーは既にその餌食になっていると考えるのが自然だった。各種防壁をキャンセル出来るような一握りの実力者のみにしか不可能な所業ではあるが、波留はその不可能を可能にする人間だと彼は理解していた。 「それだけじゃ足りないと?流石、人工島の神の懐刀は、情報に貪欲だな」 微笑みすら浮かべ、レッドはそう漏らしていた。その態度に波留は眉を寄せた。自分の考えを見透かされていると気付いたからである。しかし、彼はそれをそのままレッドに伝えていた。 「彼に全ての情報を渡していた訳ではないのでしょう?リーダー格たるあなたから証言を得なければ、事件の全容は解明されない」 波留は確かにシルバーの記憶から情報を抜き取っていた。しかしシルバーはあくまでも実働部隊のひとりに過ぎなかった。あの少年は今回の作戦では自らに関連する一部分を伝えられたのみであり、依頼の詳細すら把握していなかったのだ。 それは、深くを知ってはその身を危険に晒しかねない犯罪行為に手を染める者としては、懸命な判断である。そしてその判断が、波留からのクラックに対しても懸命な方向へと作用していたのだ。結果的に波留は、人間の記憶を直接抜いたと言うのに、事件の情報を虫食い状態でしか把握出来ていないのだから。 だから波留はレッドから情報を得るしかない。リーダー格とおぼしき彼ならば、全ての情報を管理していたはずなのだから。作戦の上位者として、辿れる情報は多いはずだった。だから手段を選ばず、彼が所有する情報を求めようとしているのである。 真剣な表情を浮かべて訴えかけてくる波留の顔を、レッドは眺めていた。そしてその彼の表情が、不意に歪む。唇を吊り上げて笑い、目を見開いた。 「――やなこった。お前の好きには、絶対にさせんよ」 嘲笑うような声が、レッドの喉から発せられた。 その喉がひくつき笑い声を微かに発した直後、彼の見開いた目がふっと曇った。そして背中を壁に預け、後頭部を押し付ける。褐色の髪が壁と擦れ、そのままずるりと壁に寄り掛かった。肩が落ち、四肢が脱力する。 その光景を目にしても、誰もが反応出来ない。異変の発生に気付いていなかった。しかし、一番最初に声を荒げたのはソウタだった。 彼は杖を突いている立場にも拘らず、一歩を踏み出しレッドに倒れ込むように腕を伸ばす。その手の先には、首筋があった。そこを掴むように触れる。そこに彼の叫びが被さった。 「――電脳自殺か、初期化プログラムだ!」 |