――何処まであのダイバーはまともじゃないんだ!? シルバーには犯罪者たる自分の事を棚に上げている自覚はある。しかしこの波留のやり様を目の当たりにすると、ついついそんな事を言いたくもなった。 上には上が居ると言うべきなのか。それとも、体制側の人間と思っていた相手が、不法行為に片足を突っ込むような策を弄した上で尚飄々としている様が凄まじいと言うべきなのか。彼には判断がつかなかった。 確かに言える事は、自分ではとても対応出来ない存在である事実である。迫り来る鮫型思考複合体を呆然と見やりつつ、彼はそう思っていた。 彼は身を翻す。短刀を胸元へと持ってきた。水流を巻き起こしながら迫る鮫の巨体を、済んでの所で交わす。身体を仰け反らせつつ、鮫の上部を取った。 浮き上がりながらも、シルバーは左腕を伸ばしてゆく。鮫の大きな口に気を取られるが、どうにか恐怖心を押さえ込んで無視を決め込む。そのまま、その胴体の上部にある背びれを掴んだ。 そして身体を鮫の方へを引き寄せる。そのまま、右手に持つ短刀を振りかざした。顔を振り上げて迫ってくる鮫の眉間へと、渾身の力を込めて突き下ろす。 ――あの時、あいつはこうやってこいつを破壊した。だから、俺にもそれが出来たら、この鮫に勝てるはずだ。 この期に及んで波留が取った戦法を参考にするのは癪だったが、それが彼が知る唯一のこの鮫の破壊方法だった。 思考複合体である以上、着実にダメージを与えたなら他の方法でも破壊可能だろうが、短期決戦で決めなければ勝機はないと判断したのだ。ならば鮫の弱点を正確に突く他なく、その弱点は以前の波留の戦法に学ぶしかなかった。何せ命が掛かっている状況なのだから、手法を選り好みしている場合ではない。そして彼はそれを実行しつつあった。 シルバーが突き込んだナイフの刃が先端から鮫の眉間を捕える。彼はその勢いのままに、柄まで一気に押し込んでいた。 途端、刃が突き込まれた付近から光が生じる。鮫の動作が停止し、徐々にアバターが不鮮明になっていった。その輪郭がぼやけ、色合いが褪せ、海に解けてゆく。 ――案外簡単に倒せるものだ。彼は自らの目論見があっさりと成功した事に拍子抜けしつつも安堵していた。事前に倒し方を把握していた事が大きいのかもしれない。これも結局はプログラム同士の対決なのだから、その弱点を的確に突けばコードを維持出来なくなり崩壊するのは当然なのだ――そう結論付けた時だった。 バイザーに覆われたシルバーの視界に、突然掌が出現していた。5本の指と掌を厚いグローブに覆われたその手が彼の視界にぬっと伸びてきて、眼前で静止する。 唐突な光景に、少年は何が起こったのか把握出来なかった。視界の大半を掌に覆われ、なかなか状況が理解出来ない。その指の間から垣間見える風景が頼りだった。 何時の間にかに、彼の目の前には青色のメタルダイブスーツを纏った男が泳ぎ辿り着いている。しかし、今までそんな気配は一切感じ取っていないはずだった。そもそもそこには今まであの鮫型思考複合体が居たはずで――。 そこまで考えが至った段階で、シルバーは気付いた。表情が困惑から驚愕へと徐々に変化してゆく。 全てを悟った今、急ぎ右手を振り上げて眼前の男にナイフを繰り出そうとする。しかしその手は全く動こうとはしなかった。自らのアバターの四肢を一切動作出来ない。見開いた瞳で只、かざされた掌を見上げていた。凝視したなら、その指先から細かな糸のような光が彼に対して降り注いでいる事にも気付くだろう。 ――…お前。 自らの電脳がウィルスめいた侵入者に冒されつつある事を自覚しつつ、シルバーはそれだけの単語を発する。アバターの口が僅かに開き、微かな吐息が漏れた。 その様子に、掌をかざして来ている人物が目を細める。彼はシルバーの顔を観察するように、冷静に覗き込む。そして笑うでもない、淡々とした思考が少年に到達していた。 ――僕があなたに、違法行為を用いてまで、馬鹿正直にお付き合いするとでも思ったんですか? その言葉にシルバーは僅かに口を動かした。舌打ちをする。自分はこの男にまたしても騙されたのだと確信した。 攻撃プログラムの中には、アバターや表面上の効力を脳死やそれに類する強力なプログラムに偽装しているものも存在する。それ自体は全くの無害なプログラムであり、命中したからと言って目立ったダメージを受ける訳ではない。相手側に実際の効力を勘違いさせた挙句に、それに対応するための新たなプログラムを実行させる事が狙いである。敵は無害なプログラムに騙され、不必要なリソースを消費する事になる。 今回波留が用いてきたこの「鮫型思考複合体」も、実はそれを偽装したものに過ぎなかった。実情は、鮫のアバターのみを模した単なる描画プログラムだった。シルバーが「楽に倒せた」と感じたのも、当然の話である。おそらくは攻撃を受けた時点で崩壊するように設定されていたのだろう。 それを目くらましに波留本人がシルバーに接近し、隙を突いて攻撃を仕掛ける。そうすれば抵抗を受ける暇も与えず、目的を遂行出来る――そう言う事であり、シルバーはそれにまんまと引っ掛かった事になる。 その事実に、少年は顔を歪めた。結局は俺の一人相撲か。勝てないだろう勝負を挑み傷を負わせようにも、その相手すらしてくれないのか。その苛立ちがそのまま台詞となって現れた。駄々をこねる子供の叫びのように、それが放たれる。 ――お前は、何処まで俺を馬鹿に――。 しかし少年のその思考は、割り込んできた声に遮られていた。 ――黙れ。 シルバーの電脳に、鋭いながらも驚く程静かな声が届いていた。それは短い声である。だからこそ、そこに込められた冷徹な凄みが存分に感じ取れた。それに、思わず彼の思考が止まる。 少年は、呆然と眼前の男を見上げる。互いのバイザーに隔てられつつも、光の関係で今は相手の顔をしっかりと見る事が出来ていた。 そこに透過されている波留の顔は、一切の無表情だった。その顔がシルバーを見下し、見つめている。瞳からは感情が垣間見えてこない。彼がかざしている掌から放射されている光の糸が、微かに弾けた。 その風景をシルバーは瞳に映す。糸の光が微かにちらつき、光量の割に眩しく思えた。 ――僕は君の言い分など求めてはいない。僕が知りたい事は全て、君の脳から直接抜くだけだ。 淡々とした台詞が続いてくる。そしてその台詞が終わった瞬間、シルバーの頭に鈍い痛みが走る。電脳に負担が掛かった時に感じるようなものだった。そしてそれはじわりと電脳内に広がってゆく。 眉間や耳元から、何かが吸い出されてゆくような心地がする。細い糸が頭に絡み付き、差し込まれているような感覚さえした。かざされた掌がやけに大きく見える。 四肢が震え、指の1本すら動かせない。そのうちに右手に握ったまま硬直していたダイバーズナイフのアバターが、光芒を残して消失した。彼の意思の力では、最早維持が出来なくなっていた。 彼の電脳内では、全く意図していないダイアログが立ち上がり起動している。それは明滅するようにいくつも出現し、彼の思考野を徐々に侵してゆく。何らかのプログレスバーが進むに従い、何かを抜き取られる気分になる。硬直した身体で、どうにか息を吐いた。その喉が震えている。 電脳を、クラックされている。保安のために俺が準備していたもの、或いはメタルの仕様上のもの――メタルに存在するはずの全ての防壁を解除され、俺の記憶自体に触れられている。 波留が、その手で直に。自らが抜きたい記憶を存分に探り出すために。 メタリアル・ネットワークの基本理念の根本には強固な防壁の存在がある。全ての電脳に防壁が標準装備され、バブルシェルにより厳密にパーテーションされている。それに拠り、別のネットワークシステムよりも格段にハッキングの可能性は低くなっているはずだった。 しかし、現在でもその可能性はゼロではない。前時代ネットワーク同様に、他者の電脳を我が物のように操作するだけの技量の持ち主も理論上は存在するはずである。それでも別のネットワークと比較すれば、それは無きに等しい確率だった。 それが、今、この目の前に居る。シルバーは我が身をもって、それを悟った。 波留の手が直に記憶に触れる感覚がする。互いの思考が剥き出しとなり、触れ合う心地がした。そこに、波留の声が響き渡る。 ――…よくも、僕の大切な人々を。 それはシルバーに聴かせるための発言ではないようだった。あくまでも、波留の思考に現れた独り言めいたものと思われた。 しかしその台詞には、凄まじい感情が込められていた。メタルの海を駆け抜ける津波のような衝撃波を連想させるようなものだった。 その時、シルバーはようやく悟った。 自分達は愚かにも、人工島の神の親友の逆鱗に触れていた事を。そして、その人物は神の親友に相応しく、神に匹敵する能力を持ち合わせていた事を。 だから――こんな化け物の相手なんかしたくなかったんだ。 目の前には表情を浮かべない波留の顔がある。それは本当に何も感じていないのではなく、逆に激しい怒りを感じているが故に却って感情が摩滅してしまっているのだろうと思わせた。 思考を無理矢理に引き出され、その破片がメタルの海に散乱してゆくような感覚がする。糸状の光が纏わり付き、バイザーに音を立ててひびが入った。防壁をキャンセルされている事で、海に漂う不特定多数の思考が自分に侵入してくる。ブラックアウトとはまた違う、何もかもが溶け合い混ざり合う恐怖を感じた。 俺は――まともな人格のまま、リアルに復帰出来るのだろうか。そんな後悔の念を周辺に撒き散らしつつも、シルバーの意識は徐々に薄れてゆく。 |