話が通じているのかそうでないのか、全く良く判らない相手だ。――シルバーはそんな事を思った。
 途端にどっと疲れが湧いてきた気分になり、思わず肩を揺らして溜息をつく。リアルの肉体に感じた疲れではないはずだった。おそらく波留の相手をしていて精神的に疲れてしまい、精神体と言えるこのメタルダイブ中の自分にそれが直結したのだろう。良くある話だった。
 溜息をつくと共に大きく俯いたシルバーは、そのまま顔を縦に振る。右手に拳を作り、それを胸の前に持ってきていた。力を込めて手を握り締める。
 すると、そこに光芒が走った。拳を横断するように細長い形状の光が出現し、それが取り纏まってゆく。彼はその手元に短刀を出現させていた。それはダイバーズナイフと呼ばれる種類のものである。
 淡い光を纏ったままのナイフは深海を仄かに照らし出している。光で存在を主張しているために、距離を取っている波留にもその短刀を目視する事が出来ていた。
 ――…おや。いい玩具をコーディングしたんですね。
 台詞の当初には意外そうな響きを含みつつも、何処かしら楽しげな印象を与える声が、シルバーの聴覚に届いていた。――言うに事欠いて、そんな表現か。何処まで悪役めいた言動をするつもりか。彼はその台詞の内容と口調に、神経を逆撫でされた気分になる。
 とは言え、この武器を選択するに至った理由を鑑みるに、波留にそんな事を言われても仕方はないとシルバーも理解はしている。おそらくは波留もそれを悟っているから、このような皮肉めいた事を言うのだろうと知っていた。
 ――あんたの獲物もこれだろ?同じリーチで戦いたい。
 シルバーはそう言い、目の前にナイフを掲げた。その存在を波留に示す。しかし波留は少年のその態度に、特に感慨を持たない。淡々と述べるだけだった。
 ――ナイフだろうと銛だろうと、所詮は攻撃プログラムの一形態に過ぎないのですから、その形状にあまり意味はないと思いますが?そこもお判りでしょう?
 ――それでもだ。
 そこでシルバーはさっとナイフを振った。その切っ先を波留に向ける。手にしている右腕をぴんと伸ばし、遠くに漂っている波留を指し示した。
 ――あんたも早く抜け。いつもの攻撃プログラムを具現化しろ。
 波留は突き付けられた切っ先をちらりと一瞥した。しかし何もするでもない。彼は静かに腕を組んだ。プログラムの展開の意志を全く見せなかった。売られた喧嘩を買うつもりにはならないらしい。
 ――…僕はメタルダイバー同士の抗争には興味なくてですね。脳が疲れるだけですし、下手をすれば後遺症をもたらしてしまいます。勝ってもあまりいい気分じゃない。だから、止めませんか?意味のない戦いから逃げる事は恥じゃないと思いますが。
 鷹揚な台詞を波留は電通で送ってくる。あくまでも戦いを回避しようとしているらしい。それは順当な対応だった。
 メタルダイバー同士の抗争ともなれば、互いの電脳を攻撃し合う事となる。精神を剥き出しにして戦う以上、その攻撃を防げなかった場合、ダメージはダイレクトに脳に到達する。それは単なる痛みに留まらず、記憶障害などをもたらす可能性すら含んでいた。
 そして攻防には各種プログラムを駆使する事になり、その演算で脳を酷使する事にもなる。結果的に、敗者は勿論、勝者もそれなりに脳が疲れる結果となるのである。だから出来る限り電脳戦を避けるのが、メタルダイバーの鉄則とも言えた。
 その態度にシルバーは相変わらず苛立って来る。戦闘を回避するにせよ、あくまでも波留は相手側の降伏や逃亡を求めているからである。そして自らが傷付く事などないかのような口振りである。確かに彼の優位性は誰の目に見ても明らかではあり、それを振りかざして少年の抵抗心を削ぎ、無駄な争いを避けようとしているのだろう。
 しかしそれは、逆効果だった。余裕を隠さない波留の態度に、シルバーはますます敵愾心を燃やす。水流を掻き分けるように、突き付けた切っ先を揺らした。
 ――厭だ。負けるにせよ、あんたに一撃だけでも加えないと、俺の気が済まない。
 銀髪の少年にとって、それは勝ち負けの問題ではない。メタルを生業とする者としてのプライドを賭けた勝負だった。
 最早波留に勝つ可能性など無きに等しい事は、彼も冷静に把握している。しかし、せめてこのナイフで斬り付けたい。鉄壁の防御を掻い潜った末に、僅かでもいいから手傷を負わせたい――現在の少年の目標はそこにあった。
 何も成さないまま、終わりたくなどないのだ。それは歳相応の子供の感情とも表現出来るものだろう。
 そんな少年の態度に、波留は両手をゆっくりと解く。その両腕を広げ、大袈裟に肩を竦め溜息をつくような素振りを見せた。しかし実際には、ここは海中なので息など見える訳もない。
 ――…仕方ありませんね。
 そんな言葉を遺し、波留はゆっくりと顔を上げる。バイザーの向こうには、今までとは違う真剣な瞳が見えた。
 そして波留は、その右腕をゆっくりと頭上へと突き上げてゆく。その先にある掌を広げ、そこにかざしていた。
 ――攻撃プログラムを具現化させた武器を出現させるつもりか。シルバーはそう思い身構えた。短刀を構え、姿勢を低く取る。彼は相手が武器を手にした時点で、速攻を掛けるつもりだった。胸元に飛び込んでしまえばどうにか出来るような気がした。
 すると、不意に彼の頭上のメタルの海が歪む。波紋を巻き起こして浮き上がるように6角形のヘクスが現れ、そこからごぽりと泡が吐き出される。そしてヘクスの面からぬっと姿を見せたのは、鮫の鼻先だった。
 何処かからの個別メタルから接続してゲートを開いてきたらしいその鮫が、徐々にその身をゲートに通してゆく。その全長は大きく、通常のリアルの海に生きる鮫としては巨大過ぎるものだった。メタルの産物らしく、デフォルメが過ぎる部分を保持している。しかしそれは、その鮫の強大さを誇示するに相応しいものだった。
 ――おい、お前の後ろ!
 見据えた視界の先にその姿を認め、シルバーは慌てて波留に呼び掛けていた。
 いくら何でも攻撃性ウィルスとおぼしき存在を前にしては、ダイバー同士で争っている場合ではない。一網打尽にされる可能性があるからだ。特に無差別攻撃を仕掛けるように設定されている思考複合体ならば、尚更である。一旦休戦してでも協力して排除しなければならない。シルバーもそこまで意地を張るつもりはなかった。
 しかもその鮫のアバターを、シルバーは以前見た覚えがあった。それは紛れもないホオジロザメのパターンであり、少年が喰われそうになった所で波留に倒された思考複合体のそれだった。まさか別個体が存在したのだろうかと焦りを感じる。
 メタルはリアルと違う概念の世界なのだから、波留に倒された鮫が自発的或いは偶然を問わず、事前にコピーを遺していたとしてもおかしくはない。それがメタルの海に潜んでいて、今こうして偶然姿を見せたとも仮定出来る。
 しかし頭上に鮫の出現するゲートを掲げる波留は、一切怯む様子を見せない。彼が突き上げた腕の隣に、徐々に鮫がその姿を見せてくる。鋭い歯が並ぶ大きな口が、彼の腕の隣をすり抜けていった。そこから覗く口腔の紅い肉色が、シルバーに向けられる。
 その思考複合体は、至近距離に居るダイバーを一切攻撃しようとはしない。その先に居る少年に鼻先を向けていた。
 胴体を打ち振り泳ぎ水を掻きつつ、鮫はゲートから尾びれまでを出現させてゆく。鮫が発生させている水流を、僅かにシルバーは感じ取った。
 その頃には、彼も勘付いていた。ある仮定に考えが至っていた。
 ――…まさか、お前。そいつを。
 まともな文章にならない言葉を発しつつも、シルバーは信じ難い思いだった。そこに波留は宣告する。
 ――僕はもう若くないので、疲れるのは厭でしてね。血気盛んなあなたの相手はこの子に任せるとしましょう。
 シルバーは息を飲んだ。まさかとは思ったが、本当に波留はこの鮫型思考複合体を自らの支配下に置いているらしい。出せと言われて発動させた攻撃プログラムとは、いつも用いているダイバーズナイフ形式ではなく、これなのかと少年は思い至る。
 事象は把握した。しかしそこに納得はない。自立型攻撃プログラムを使用してくるなど、予想だにしていなかったからだ。そんなダイバーはアンダーグラウンドにしか存在しないと言う認識が彼にはあった。まさか、正式に電理研から業務を委託している立場の人間が、こんな危ない橋を渡っているなど思いも拠らない。その焦りが、電通に乗る。
 ――お前、そんなものは、所持自体が人工島でも違法だろ!?
 それとも、メタルのシステム管理者ならば、保安業務の一環として攻性防壁代わりに配備する事は出来るのだろうか。所持を届け出て認可を電理研から受けていれば、使用してもいいのだろうか。しかし、これは明らかに過剰防衛じゃないか?――そんな疑問を抱く。シルバーは人工島の法整備をそこまで把握はしていなかった。
 そんな少年を波留は一瞥する。全く動揺していなかった。静かな言葉を発する。
 ――…身の程を弁えない駄々をこねる子供には、これで充分だ。
 その辛辣な思考がシルバーに到達していた。それに、少年は怯む。僅かに身を引く。
 波留の頭上では、巨大な鮫型思考複合体がその全容を明らかにしていた。そして鮫のログアウトを終了したヘクスゲートが、光の筋を発して消失する。波留はその光を頭上から浴び、その身を仄かに輝かせていた。
 そして波留はゆっくりと右腕を振り下ろす。掌を先へと指し示し、水を切った。
 ――行け。喰らい尽くせ。
 電通形式でコマンドワードめいた台詞が発せられる。そして波留の支配下にある鮫型複合体はその命令に従った。尾びれを打ち振るい、前方へと勢い良く回遊してゆく。その先に、少年のメタルダイバーが存在していた。
 
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