メタルの海が発する海流やバブルの音に混ざり、微かな電子音がそこに響いた。波留の眼前に浮かび上がっていたパネルでは「作業完了」のクリアメッセージが表示される。そしてそのパネルが中央から散開してゆくように緩やかに閉じられてゆき、その光が仄かに海を照らすように広がって行った。
 周辺のメタルの海に光が染み込んでゆく。このシステムメタルにハッキングの影響が浸透してゆく様子が視覚化されていた。
 それを無言でシルバーは見守っていた。結局彼は、波留を阻止せずそのハッキングの腕前を鑑賞していただけとなっている。
 自らのハッキングは解除され、そこに上書きするように波留は新たな支配権を確立してしまった。その手際の良さには、流石電理研委託メタルダイバーの実質上のトップに君臨する人間と思うべきか、そうであったにせよ堅気の人間にしてはあまりに手馴れていないだろうかと疑問に思うべきか、少年は迷う。
 作業を完了しても、波留はシステムのコントロールパネルがあった箇所に向き直ったままである。そんな彼に、シルバーは訊いた。それは今回の件とは直接関係はないものの、少年が抱えていた重要な疑問点だった。
 ――あんた…結局、生身なのか?義体なのか?
 結局シルバーは、それに振り回されたのである。彼だけが動揺するならまだいいものを、彼は波留を殺させないようにイエローにも「発覚した事実」を告げてしまった。それが、彼らの計画に綻びを生じさせたとも言える。
 少なくとも、シルバーの進言を受けて生身と信じて狙撃したら実はやはり義体だったと知ったイエローの驚きは計り知れないだろう。実働部隊の彼女に負担を掛けてしまった事を想像すると、少年はそれに責任を感じてしまう。
 その電通に、波留は顔の向きを変えた。作業を完了させたからか、ようやくシルバーの方を見やる。それでもメタルダイブスーツに覆われた彼の頭部はバイザーを持つヘルメット状であり、その奥にある表情は外部からなかなか読み取る事は出来ない。
 ――さあ。どちらだと思いますか?ソウタ君の電脳で、僕の診察履歴を覗き見たんでしょう?
 問いに対して明確な返答を寄越さない波留に、シルバーは苦々しい顔になる。
 ――…あれ、あんたの差し金か。
 そのシルバーの台詞に、波留は何も返さなかった。肯定も否定もしない。沈黙するのみである。しかし少年にとって、仕掛けたのが波留とソウタのどちらであるかは、然程重要ではなかった。
 重要なのは、あれは偶然ではなく罠だったと言う可能性の示唆である。波留はそれを明確に言葉にした訳ではないのだが、それを見たのだろうと推測をして来ている。ならば、やはりそうなのだろうとシルバーは悟った。
 ――でも、あの文書が真実とは限らないよな?俺をハメるための偽造文書って可能性も否定出来ない。何せあれがあったのは、結局部長代理の電脳内だ。個人が脳内で楽しむだけの偽造文書作成なら、それは空想の範疇であり違法じゃない。
 沈黙する波留に対し、シルバーは自らの推論を述べていた。
 前時代のように例え個人的に楽しむためとしても正式な形式で文書を作成してしまえば、製作者に悪意はなくとも誰かに利用されてしまう可能性は排除出来ない。それは紙媒体のような具現化された形式は勿論、保存メディアに収録されたファイルや、或いはネットワークに漂う文書や自らの端末に保持されたままのものか――ともかく、ファイルを開いてしまえば第三者の目にも明らかな存在だからである。
 それが、現在の電脳社会では、各個人が自らの電脳に様々なファイルを保持している。そこに閉じ込めておく限り、第三者の閲覧は電脳のハッキングを介さなければ不可能である。個人の電脳がその個人から切り離せない状況にあるためだ。だから、自らの電脳内に留めておくならば、どんな文書を作成してもそれは夢想や妄想に留まる。それを覗き見て勘違いした人間が居るにせよ、覗き見自体が違法行為なのだ。
 この罠を仕組んだのが波留にせよソウタにせよ、彼らはソウタの電脳が監視されていると言う状況を逆手に取った。プライベートの領域を覗き見すると言うハッカーの優越性につけ込んだのである。いくら電脳を覗き見しているとは言え、相手にそれを通告しているのだから付け入る隙を充分に与えている。その可能性と相手側の狡猾さに、シルバー達はもっと早く気付くべきだった。
 ――だから、あなたは御自分の目で見たものが真実かどうか、様々な手段を用いて精査しなければなりません。無批判に信じてはならない。膨大な情報に触れ、それを扱う仕事とは、そう言うものです。
 波留の返答は、まるで年下のメタルダイバーを諭すかのようなものだった。通常ののメタルダイブにおいて、経験豊富なダイバーがメタルダイバーとしての心構えを伝えようとしているようである。
 それは、シルバーが述べた推論が一般論に傾いていた事もあるかもしれない。しかし少年は、波留のその台詞にまたしても煙に巻かれている気分に陥った。俯いて首を横に振り、バイザーの内部で舌打ちする。
 ――あんたが言う事の何処までが本当で、何処までが嘘なんだろうな。
 ハッカー同士の抗争とは、コンピューターネットワーク黎明期の頃から、結局は情報戦である。何もプログラムを用いて、力づくで相手の情報を抜いたり改竄したりするばかりではない。ブラフとして流す情報に上手い嘘を紛れ込ませたり、相手の信頼を得て情報を聞き出す手法の方が成果を上げる事が多い。
 現在ではAIが社会にて一定の活動を行っているとは言え、情報を扱うのはまだまだ人間である可能性が高いのだ。人間を騙す行為もハッカーとしての手段のひとつなのである。嘘と事実の境界線が読めない――相手にそう思わせた時点で、そのハッカーはかなりのリードを得ている事になる。
 ――レッドだってなかなかのやり手だったはずなのに、結局あんたが全てを手玉に取りやがって。ここまで騙しておいて、あんたに良心の呵責って奴はないのか?
 シルバーのその言い分は自己中心的なものだった。何せ犯罪行為に至っているのは自分達の側なのである。そんな事を言えた義理ではないと、彼自身良く判っていた。
 しかし、相手側もかなりの際どい行為を用いてきており、そこに文句を言いたい心境にもなる。明らかに敗北が確定している今、清廉潔白とも言い難い相手には愚痴のひとつも言いたいものだろう。
 相対する少年からのその電通に、波留は首を傾げた。穏やかな海流の中、疑問を呈するような仕草を見せる。そのまま左手を顎に当てた。少し考え込む。
 そしてその手を下ろした。少年に向き直る。海底部分ではあるが、システムパネルが僅かに発する光をバイザーに受けていた。そこに、波留の顔が透過されていた。シルバーの前に表情を明らかにする。そのまま彼は言葉を発する。
 ――…この程度のやり方に、騙される方が悪いと思いますよ?
 その台詞を電通に乗せて来た波留の表情は、平然としたものだった。シルバーが表現する所の「良心の呵責」と言うものは一切感じていない様子である。
 波留の立場としてはそんなものを感じなければならない筋合いではないのだから、言い出した少年としてもそこは構わない。問題は、台詞の内容だった。
 明らかに波留は、相手を騙したのだと認識しているらしい。手玉に取った自覚はあるらしい。
 それを認め、思わずシルバーはその場で仰け反った。波留の猛々しさに圧倒される。常識に当て嵌めて、どちらが「悪役」なのか全く判ったものではなかった。
 
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