シルバーの身体が水中に放り出される。投げ出されたような感覚で、彼は背中から海へとダイブしていた。
 メタルの海では、海抜ゼロに当たるラインが基点となる。それ以上の上部に空間は存在しない。だから海中に放り込まれるような高さは体感出来ないはずなのだが、実際にダイブした瞬間はそれに似た感覚を覚えるのだから、仕方がない。
 身体が仰向きのまま徐々に沈んでゆき、一定の地点で浮力と圧力とが相殺されて停まる。彼の周辺には細かな泡が立ち昇り、上へと流れてゆく。この奇妙な浮遊感には、シルバーは何時まで経っても慣れなかった。
 リアルの海でのダイビングをこなしていけば違和感を覚える事もなくなるのだろうかと思うが、彼にはその気はない。そこまでしてメタルダイブを極めるつもりはなかった。彼のフィールドはあくまでもメタルの海の外部であり、リアルに身を置いたままでのコーディングなのだから。
 それでも必要に駆られた場合、メタルダイブしなければならない。元々託体ベッドにその身を横たえていたのだから、意識を集中してダイブへのリリースプログラムを試行すればいい話だった。
 手馴れたコーディングと結局は同じ事をしている。だから緊張する必要はない。彼は自分にそう言い聞かせつつ、メタルダイブスーツに身を包み、情報の海を泳いで行った。
 目指す地点は確定しており、コーディングによるハッキングは事前に掛けていた。だからメタルの海としての座標は既に把握している。海に配置されているビーコンに従い、進めば到達するはずだった。
 彼はその座標へと、急ぎ泳いでゆく。しかし彼がそこに到着した時には、既に先客が居た。
 深い青のメタルダイブスーツに身を包んだその人物は、システムメタルのコントロールパネルを展開している。そして彼はその上に手をかざし、何らかの操作を行っていた。それは順調そのものの様子である。
 シルバーはその姿を認めた。一瞬水を掻く足を止めるが、すぐに再開した。周りを窺うようにしつつも、ゆっくりとパネルとそのダイバーへと近付いてゆく。
 そんな時、シルバーの電脳に電通の着信ダイアログがポップアップしてきた。そのアドレスは電理研の仕事を委託する際に使用する仮の認証コードであり、それを知る者は同じチームで仕事をこなしたダイバーのみである。
 この事実に彼は眉を寄せた。しかしそのまま回線を開く。電通を受け容れる事とした。
 ――お久し振りです。お元気だったようで何より。
 英語を用いた何気ない挨拶めいたあっさりとした口調がシルバーの聴覚に届く。それは、低く凛々しい青年の声であり、彼にはそれなりに耳慣れた声でもあった。
 その電通を発している波留真理と言うメタルダイバーは、シルバーの眼前でシステムパネルに手をかざしている。近辺にシルバーが現れている事は座標を把握しているならば理解出来るだろうが、彼は少年ダイバーの方を向こうとはしない。思考をパネルに集中している様子だった。
 その態度に、シルバーはバイザーの向こうで眉を寄せる。無視された心境だった。無論、電通回線を開いている以上、顔を向ける必要はない。何よりここでの彼らはメタルアバターであり、礼儀も何もないのかもしれない。
 しかしシルバーは確かに苛立ちを感じていた。そのままに、問う。
 ――あんた、ここで何してる?
 その問いは奇妙なものである。シルバーはこのメタルの管理者ではない。それどころか許可されていない侵入者である事実は、波留と変わらないのだ。
 そんな彼に誰何される筋合いは、波留にはなかっただろう。しかし波留は、シルバーに淡々と答えていた。
 ――あなたにハッキングされたメディカルセンターのセキュリティシステムを、更に僕がハックしている所です。
 悪びれもしない台詞が返って来て、シルバーはそれに呆れる。メタルの海はそこまで無法地帯ではなく、管理している電理研の管理システムのバグが魚のアバターを用いて回遊してきたらその電通の内容を拾われる可能性がある。そこにハッキングを示唆する会話を遺しても構わないと波留は思っているらしい。
 更に言うならば、その台詞の内容自体が凄まじい。そこをシルバーは指摘する。
 ――俺のハックを解除して、権限をセンターの警備室に戻してやらないのか。
 ――ええ。今はその時ではありません。少しの間誤魔化して、事が済んだらこっそり戻す事にしましょう。
 波留は自らのバイザーにパネルが発する光を当てつつ、そんな電通を送る。彼の眼前のパネルにはプログレスバーが伸びてゆき、作業が着実に進んでいる様子が映像として判り易く現している。システムそのものや先のハッカーが仕込んだ防護プログラムなどの抵抗をすり抜け、波留はシステムを支配下に置きつつあった。
 ハッキングと言う違法な手段を用いている割には、波留の口調は相変わらず朗らかである。シルバーから管理権限を奪った後に、波留は特に何もするつもりはない。今回の事件とそれへの対応は極秘であるため、監視システムを復帰させた挙句に第三者たる警備員に発見されたくはないのである。
 逆に言えば、全てが終わってしまえばハッキングしておく必要もなくなる。そうなれば、彼は何食わぬ顔で権限を戻してしまうつもりだった。
 ――と言う訳で、最早あなたの出る幕ではありませんよ。あなたの仲間は僕達の手に落ちています。残されたあなたは、尻尾を巻いて逃げるが吉でしょう。
 波留が述べた意見は、常識的な諭しだった。ここまで大きな犯罪行為は独りでは不可能であり、その仲間の殆どが既に囚われの身となってしまった以上、シルバーがこれ以上拘る必然性などない。
 幸い、波留はこのまま見逃すような口振りをしている。甘い話ではあるが、波留の気が変わらないうちに逃げ出してしまうのが懸命だと思われた。
 しかし、シルバーは何処か気に食わない。それは波留が結局の所、自分の事を歯牙にも掛けていないのだと感じたからである。何をしようが脅かされる可能性などないだろう――波留はそう言いたげであるように、少年は解釈したのだ。
 ――おい。
 ――はい?
 シルバーが呼びかけると、波留は促す。彼の目の前のプログレスバーはいよいよ作業完了を告げようとしていた。その数値はシルバーからも見えている。
 ――ハッカーとして、知った顔の俺が出てきたのに、全然驚かないんだな。
 ――ええ。事前に判ってましたから。
 事も無げな台詞だった。どうやら下調べは万全だったらしい。波留は動揺と言うものを一切見せない。
 それは、シルバーを前にした際にはいつもの事だった。仕事上でのメタルダイブの時もいつもそうだったと、少年は思う。何せホホジロザメに追われようが、目の前で仲間がその鮫型思考複合体に襲われようが、全く焦らないのだから――。
 ――あんたには全部お見通しか。恐れ入ったよ。
 シルバーのその台詞は、若干吐き捨てるようなものとなっていた。事前に様々な可能性を考慮した上で準備を行い、その先に想定していなかった事件が発生しても動揺せずに対処する。そんな、全知全能の神でもあるまいに――。
 ――そんな訳ありませんよ。
 その時、波留からは心外だと言いたげな台詞が飛んだ。それをシルバーは謙遜だと解釈する。その手の論理を波留から喰らうのは、初めてではなかったからである。謙遜も程度が過ぎれば厭味だ――彼はその身をもってその格言を理解しつつあった。
 そこに、波留は続けてきた。
 ――以前から全てを知っていたなら、あなたとお付き合いなどしませんでした。まさか、不当な手段で久島を狙っていたとはね。
 それは相変わらず淡々とした口振りだった。しかしシルバーはそこに、僅かな怒りを込めた、それでいてとてつもなく冷たい感情を読み取る。
 電通とは思考が伝わってくる形式の会話である。幾許かの誤魔化しも音声通話同様に可能とは言え、やはり偽れない感情と言うものは確かに存在するものだった。
 
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