今このメンテナンスルームに立っている波留真理は、当人ではない。 ここに居るのは彼を模した全身義体であり、その脳核には基本設定のみを成したデフォルトのAIを搭載している。 しかし今はそのAIを稼動させていない。「彼」の中にある意識自体は、波留当人のものとなっている。メタルを経由して接続し、波留当人が操作しているのである。それは、「リモート義体」と称される形式の行為だった。 義体が目で見て耳で聴いた事は彼の意識に転送され、逆に彼が言いたい事は義体の声帯や口を用いて喋る事が可能だった。そして掌は、当人同様に接続デバイスとしても利用出来る。四肢の動作も通常の人間のそれとして操作する事が充分に出来ていたため、一見して誰もリモート義体だと気付かなかったのである。 レッド達によって波留の義体にはデバイスが装着され、接続には制限が掛けられていた。しかし最低限の電通は許されており、義体を操作するにはそれだけの回線が確保されていれば充分だった。それは波留自身の技量に裏打ちされた事でもある。 そして波留自身の意識はこの義体には存在していなかったため、デバイスによる接続障害は実は彼に全く影響を及ぼしていなかった。だからこそ彼はメタルを操作して、この場にジャミングを掛ける事すら可能だったのだ。 かくして波留は義体を現場に送り込む事とした。しかし普段から使用している義体ではないために、最初にセットアップが必要だった。しかし電理研を始めとした公的機関には極秘で動いているために、彼らの力を借りる訳にはいかない。結果的に「親切な人」に手助けして貰い、声帯を波留仕様に変更するなどのセットアップを行い、その義体をリモート化して街中へと放った。 そのまま義体を隔離病棟へと派遣し、その目を通して現場の状況を把握し、ジャミングを掛けるタイミングを計っていた。更に自らが予想外の方向から危害を加えられる事すら想定して、自らを餌としたのである。 そのための義体投入であり、結果的に波留は犯人達を一網打尽としていた。彼はその名までは把握していないが、遠距離の雑居ビルの一室から狙いを定めていた狙撃主の存在を2発の弾丸により炙り出した。 波留はその身で受けた弾丸の射出方向とその威力から算出される距離で、彼女の位置を特定し、その座標にピンポイントでジャミングを仕掛けたのである。おそらくは彼女もまた電脳を落とされ、行動不能に陥っている事だろう。3弾目が来ない事からもそれは裏付けられていた。 「――それにしても、御自分の義体を別にお持ちだったとは…」 波留の種明かしめいた事情説明を訊いた蒼井衛は、そのような感想を漏らしていた。 確かに以前の波留は正に高齢の老人だったのだから、いずれ朽ちてしまう肉体から義体に脳核を載せ換える考えを持っていてもおかしくはない話である。それだけの資産は保持していると訊いていたし、用いられる技術の伝手も電理研と近しい立場なのだから充分確保出来ているだろうと想像はついた。 そんな中年男性に、波留は僅かに微笑んだ。リモート義体のために、表情の操作はあまり気を遣っていないらしい。 「僕じゃありません。久島が準備していたのですよ」 「久島部長が?」 「全く、それが頭部フレーム強化型とか…自分の義体は通常の一般規格なのに」 波留の口調は淡々としている。感情を再現すべく操作していないからだろうが、衛にはそこに何処となく呆れたような雰囲気を感じ取った。衛は生身の波留と付き合いがあるから、補完した部分があるのかもしれない。 台詞の最後の方には、波留は視線を落としていた。そこに居る車椅子の人物を見下ろしている。その視線に釣られるように、衛は視線を向けた。沈黙している久島の義体を見る。 そこでは彼の娘が跪き、義体の衣服を整えていた。彼女は開いていた襟元のボタンを首元まで留め、ネクタイを締めてゆく。微笑んで何事か話し掛けつつ手馴れた様子で身嗜みを整えてやり、義体もそれを受け容れていた。 この義体の頭部に格納されている脳核に在るはずの個人が、その波留を模した義体を準備した事になる。衛はそれを思い、波留のぼやきにも似た口振りに笑いの成分が刺激された。 しかし波留の義体に限って頭部フレーム強化型にした理由は、彼の上司の態度を鑑みたらすぐに理解出来る。如何なる状況からも波留を護りたかったのだろう。自分の安全は第二であり、全ては波留のためを想っている。久島部長とはそう言う人物だった。 「――波留さん」 不意に、彼らの間に少女が割って入ってきた。ミナモは久島の介助と言う自らに課せられた任務に一段落をつけ、そこに立っている波留の元へと一歩を踏み出したのである。 そのままミナモは膝の前で両手を組む。その手をぐしゃぐしゃと組み変えつつ、眉を寄せた。頑張って考えている素振りを見せる。 「じゃあ――ここに居るのは波留さんだけど、波留さんじゃないって事ですか?」 「まあ…そう言う事です」 少女の問いとその曖昧な表現に、波留は僅かに微笑んだ。相変わらず表情はぎこちない。微かに首を揺らすと解けたままの長い髪が彼の頬をくすぐった。こめかみの付近から流れた白い循環液が髪の一房に付着して垂れている。 波留は目許に微笑みらしきものを湛えたまま、ミナモに口を開く。若干の困ったような印象を与えてきた。 「しかし、僕はそろそろここからおいとましようかと思います」 「え?」 「いくら何でも、片手間でお相手出来る人でもありませんし」 そう続け、波留はその義体の視線を中空に向けた。その仕草にミナモは不思議そうな視線を送る。 しかし、傍で娘との会話を見守っていた衛には、波留が言わんとする事が理解出来た。おそらくは、こんな他愛もない会話をしている最中に、メタル内の波留は平行して何らかの作業を行っているのだ。そしてこちらが落ち着いた以上、その「別の作業」に専念したいのだろう。 「その結果、この義体は抜け殻になりますが、AIの電脳は搭載しています。その彼にも出向いて貰う場所がありますので、結局この場を去る事になりますが…」 言いながら波留は自由が利く左手を上げる。そのまま頭ひとつ低い背のミナモの肩に、その手を置いた。 ミナモは軽く顔を下げ、その手を見やった。そして手と見比べるように、波留の顔を見上げる。 このどちらも波留当人のものではない。それは容貌はそのものであったにせよ、表情の違いからも明らかである。しかし、発する台詞の内容は、紛れもなく波留だった。ミナモとしては、そこが不思議でたまらない。 「心配なさらないで下さい。すぐに終わらせて来ます。そうすれば、ソウタ君と一緒にここに戻って来ますよ――生身の僕でね」 口調そのものには抑揚がない。波留当人は、この義体を操作するためのリソースを、別の作業に振り分けているのだろう。しかしミナモは、その台詞から普段通りの波留の優しさを感じ取る。 ミナモ自身、そっと両手を上げた。その手で、自らの右肩に置かれた波留の左手を包み込むように触れる。義体には体温が設定されており、左手は暖かかった。 「波留さん、ソウタと一緒に居るんですか?」 「ええ。リアルでは同じ場所に」 兄の名が出てきた事で、ミナモはようやく彼も充分に巻き込まれている事を思い出した。そこで尋ねると、波留は囁くような声で答えていた。その響きに少女は何故か、思わず俯いた。そっかと口の中で呟く。 不意にミナモは自らの手が持ち上がるのを感じていた。波留がその左手をゆっくりと引いている。それに釣られて上に置かれていたミナモの手も動いていたのである。 思わず、ミナモはその手を離す。すると波留は左手を自らの胸元に当てた。少女に対し、礼儀正しく一礼する。伸ばされた黒髪が肩口から胸元に流れて行った。 「それでは、行ってきます」 「――あ、波留さん。少しいいですか?」 その申し出に、波留はミナモを見た。軽く首を揺らす。 ミナモは自らの後ろ髪に両手を伸ばしている。そこにある大きなリボンに触れていた。それはクリップ式のリボンアクセサリーであり、ミナモはそれを手探りで外していた。外したそれをスカートのポケットに突っ込む。 リボンが取り払われた後でも、少女の長い髪の一房は後ろに纏められたままだった。リボンアクセサリーの下で、髪は更にゴムで纏められていたからである。 彼女はその纏まった髪に触れ、輪になったゴムを一気に引き抜く。自然体のようでいて髪は良く手入れされているらしく、何にも引っ掛かる事もなくゴムは引き抜かれていた。ふわりと褐色の髪が肩に落ちる。 解いたゴムをひとつの輪にして、ミナモは手首に引っ掛ける。そして波留を見やった。 「波留さん。その髪結びましょうよ」 「え?」 言われた方は、思わず左手で胸元まで垂れ下がってきている黒髪を一房摘み上げた。指で挟み込み持ち上げたそれと、満面の笑顔のミナモとを見比べる。 そんな波留に、ミナモは微笑み掛けていた。てくてくと彼の後ろに回る。 「いいからいいから。ちょっと屈んで下さい」 「あ、いや、これは義体ですから、そんなお手間を取らせなくても」 淡々とした口調ながらも戸惑うような台詞を振り返りつつ発する波留に、ミナモは肩を揺らす。諭すような言葉を口にした。 「駄目です。波留さんは髪を結んでる方がかっこいいんですから。――あ、でも今の波留さんも充分かっこいいけど、やっぱり慣れってのがあります」 「…はあ」 台詞の最後に、ミナモは慌てた風に新たな意見を繋げる。それに対して短い言葉を発し、波留は結局そのまま少女に身を委ねていた。 そんな彼らの様子を、少女の父親は半ば呆れ顔で見守っている。車椅子に収まった久島の義体もまた、無表情のままに彼らを見やっていた。共に、ふたりのやり取りには口を挟まず、黙っている。 |