ミナモにとっては、このメンテナンスルームは馴染みの場所だった。しかしそれはあくまでも待合室部分に限っての事である。 基本的にガラス壁の向こうの処置室には、技師以外の人間は立ち入れないようになっている。ここでメンテナンスなどの処置をされる義体とは根本的には精密機械であり、その扱いには細心の注意を払わなくてはならない。各種フレームを展開して内部機関を露出させる作業の場合は尚更である。そのために処置室に出入りする人員は専門職に限った上で著しく制限されるのだ。 しかし今回は非常事態であり、この場の支配権を握っているのは病棟関係者ではない。よって、その占拠側が必要とする人員を遠慮なく処置室に招き入れていた。そもそも彼らは義体もその内部を成す脳核も、その双方の予後など気を遣う必要性を見出していないのだから当然の扱いとも言えた。 久島の義体を収めた車椅子を押し、背後をブラックに取られたままミナモが初めて処置室に足を踏み入れた時、波留とレッド、そして選抜された義体技師が既に室内に居た。 義体技師は動揺の色を表情から隠せないまま、機材のセッティングを行っている。そして波留とレッドは平常時のように何らかの言葉を交わしていた。その姿は、まるで仕事相手と申し送りでもしているかのように見える。 訪れてきたミナモ達に気付いた波留は彼女に微笑み掛ける。それは先程彼が見せた普段通りの柔らかな笑顔であり、少女の心に安堵をもたらした。 そして彼は義体に視線を落とす。笑顔を湛えたまま、右手を上げて示した。その仕草に、義体も俯いて自らの右手を見やる。そして義体もまた、無感動な瞳のままゆっくりとその手を挙げようとした。 波留の背後から、レッドが何かを言おうとする。しかし波留はその気勢を制した。あくまでも微笑んだまま振り返り、口を開く。 「――義体の設定を解除するに当たっては、データの取得は必要ですよ。久島に指名されている僕にはその権利と義務があります」 そう言われては、レッドにはそれを阻止する理由は見付からなかった。 ふたりだけの接触電通となれば外部からそれを確認する事は出来ない。そしてこれは、人工島随一のメタルダイバーと電理研統括部長の記憶を継承しているAIとの接触電通である。何のデータのやり取りをするか判ったものではない。しかし現状、このふたりにはジャマー機能を持つデバイスを装着させて電通能力にかなりの制限を加えている。だからそこまで下手な事はしないものと判断した。 背後から邪魔が入らない事を波留が確信した頃には、無言の義体がぎこちなく右手を上げてきていた。そして黒髪の青年は彼に微笑み掛け、掌を接触させる。僅かな光が発せられ、微かな電子音が空気を揺らした。 接触電通は数秒で終了する。やり取り可能なデータ量の少なさを考えるに、それは納得出来る状況だった。波留はすぐに掌を外した。 義体も腕から力を抜き、膝の上にそのまま落とした。僅かな衝撃と感触を彼は感じ、俯く。ぼんやりとした視界の中にひび割れた爪を見た。それに僅かな感慨を抱いたような気を、義体は他人事のように感じた。 そんな彼に対し、波留は膝を折る。微笑みを浮かべたまま義体に顔を近付けた。 「――それじゃ、始めましょうか」 優しい口調で彼はそう告げる。そっと義体の右肩に手を置いた。そこを軽く撫で、立ち上がる。 「少し大人しくしていて下さいね。悪いようにはしませんから」 「…遺言でも残しておくべきか?」 義体の呟くような言葉に、波留は答えない。微笑んだまま一瞥を加えた後、義体技師に向き直った。作業を始めるように進言する。 そのうちに義体はゆっくりと瞼を伏せた。口を結び、沈黙する。眠るように僅かに首を傾け、自然な位置で定着させて静止した。自発的にスリープモードに入ったらしい。 ミナモはその様子を不安げに眺めている。――このまま作業を進めたら、どうなるのだろう。AIさんが消えてしまうのではないだろうか? 波留さんは、何を考えているのだろう。悪いようにはしないと言うけれど…――。 中学生に過ぎないミナモには、彼らの考えは読みようがない。そこには単純な現実ではなく、深謀遠慮がある事を祈るのみだった。 |