ジャック・シルバーは、件の小部屋に篭ったままソウタの電脳を監視している。 彼は託体ベッドに横たわったままメタルに接続している。現状ではダイブする必要はないし、そんな状況には陥りたくはないと思っていた。彼は人工島外の人間であり、メタルダイブには不慣れな面があると自覚している。自分はあくまでもメタルの外部からコーディングを行うプログラマーであり技術者に過ぎないと認識していた。 人工島を訪れて以来メタルダイバー業にに足を突っ込んだのは、その必要に駆られたからである。幸い彼が流れてきた当時の人工島は、メタルの初期化と再起動の直後であり、そのメンテナンスに各種技術者が駆り出されてた。メタルプログラマーの経歴さえあればメタルダイブ自体は未経験であってもダイバーとして採用されるような状況だったのだ。 無論、彼もそれを狙って来島してはいる。彼は人工島において売り手市場を形成しているメタルダイバーとして自らを登録し、電理研からの依頼を委託した。それを隠れ蓑に、電理研に潜入調査を行おうとしたのだ。 全ては久島部長の居場所を探るためだった。そう言う依頼を請け――正確には「誰か」から依頼を請けているレッドから指示を受け段取りを整えて貰い、彼は人工島を訪れている。 そして約3ヶ月の雌伏を経て、それがこうして結実していた。いよいよその果実を刈り取る日が訪れたのである。それさえ終われば、支払われる報酬を楽しみにしつつ人工島を去るつもりだった。 しかしその「正当な報酬」を得るためにも、彼は現在地味な作業に従事している。電脳上において、電理研統括部長代理たる蒼井ソウタに不穏な動きがないか監視しているのである。 とは言え「クラッカーが監視している」とは、相手側には告げているのである。そうやって事前に牽制されている以上、不穏な動きを目立って見せる程の馬鹿な相手とは思えない。それでも万が一と言う事もある。或いはこちらの裏を掻こうとするかもしれない。 それを見極めるため、彼はここに配置されていた。ともすれば無駄な人員となり得るのだが、重要な役目を担ったままだった。 電脳への負担を減らすため、リアルのソウタを監視するカメラの映像は投影こそすれ、彼の意識はそこにはない。レッドに任せている。 そして逆に、レッドの目を借りて彼も現場のメンテナンスルームの様子を見やっていた。どうやら遂に波留が姿を現したらしく、ようやくこれで事態は動くものと思われた。 その結末は、相手側には一方的に不幸なものとなる可能性も高い。しかし彼はそれを無視した。多くの事は考えないようにする。それがこの業界で生き残る秘訣だと、歳若い彼は認識していた。 ソウタの電脳には、電理研からの業務メールが着信している。しかし緊急の案件とのフラグも立っていないために、受信したソウタはそれらを開こうともしない。開けば内容がシルバーにも明らかになってしまうため、当然の話だった。だからシルバーも、その表題のみを眺めるに留まっている。 ――それにしても、やっぱり部長代理って忙しいんだな。今日は電理研には居ないって社内メタルには事前に通知してるのに、メールが届くんだから。 シルバーはそんな事を思う。表題から読み取れる業務内容も様々だった。メタルでの事件については、それが電理研のメイン業務なのだから当然である。しかしそれ以外にも、リアルでの調査や何らかの開発進捗通知、タイプ・ホロンの並列化状況の申告、人工島幼稚園からの電理研見学依頼についての総務課の通達…そんな雑用にも似たメールすら、この統括部長代理のメールボックスを埋め尽くしている。 その光景に、シルバーは若干の呆れを覚えていた。――多忙と言えば聴こえは良いが、何でも屋かよ。もしかして、久島部長も健在時にはこんな事してたのか?だとしたら、電理研ってどんな企業なんだ…人工島を支配するって事は、それだけ島民が求める雑用もこなさなきゃいけないって事なのか?楽じゃねえなあ…――そんな、子供っぽい感想を抱いている。 そんな中、新たに届いたメールの表題が点滅する。それを目にしたシルバーは、一瞬その思考を止めた。 そこには「鮫型思考複合体捕獲についての調査結果」と記されていた。 シルバーは目にしたその表題に、自らが関わった案件の記憶を蘇らせている。それはほぼ1ヶ月前にこなした案件であり、彼の中では思い出したくない過去にしようとしていたものだった。招集された段階で明らかに力量が足りていないとそのチームのメンバーからは認識されており、それに値する仕事を与えられた。しかも、結局それすらまともにこなせていない――彼にとってはあまり良い思い出ではなかったからである。 そして、そのチームを率いたメタルダイバーこそが、今現在彼の視界の一旦に居る長い黒髪の青年である。シルバーとしては、何処か複雑な心境でその背中を見やる。 すると、そのメールボックスに被さるように、別のダイアログが表示されて来た。それは受動的な操作ではなく、ソウタが電脳を用いて行ったものだった。シルバーの監視下に電脳を置かれてから、ソウタは初めて能動的に操作した事になる。 ――何をするつもりだ。シルバーはそれに反応し、覗き込む。 しかし、勢い込んだ視界に展開されたデータに、彼は唖然とする。ダイアログには画像が添付されたテキストデータが開かれ、その画像は魚の煮付けだったのである。 日本人ではないシルバーにはその魚がどういうものなのかは目視しただけでは理解出来ないが、調味料によって茶色く照り色をつけられた魚の切り身が器に収まり湯気を上げる画像がそこにある。何の暗号かとシルバーは思うが、テキストの日本語をそのまま英語に対訳して自らの電脳に転送しても、それはその魚料理のレシピらしい。 もしかしたら暗号なのかもしれない。そう考えるものの、ソウタはまた別のテキストを開く。すると今度は、そこには鳥の唐揚げめいた料理が現れる。そして、シルバーはまたしても馬鹿正直にレシピを英語で読む羽目になった。 ――…もしかして、暇なのか?だから、毒にも薬にもならないファイルを閲覧し始めたか? 監視しているソウタの電脳を眺めつつも、シルバーはそんな結論に至る。確かにこんな非常時なのに「何も出来ない」のだから、「何か」をしてこの無為な時間を浪費したいのかもしれない。そうしなければ焦る気持ちだけが逸り、精神的にも厳しいのだろう。 彼なりにそう悟ると同時に、少年クラッカーはげんなりした心境に陥る。思わず身体が脱力した。部長代理にして人質達の肉親たる人物の気持ちは判るが、監視している自分もこのレシピの山の閲覧に付き合わされるのだ。だから、呆れた風にデータを遠目で眺めるばかりとする。 ソウタが展開し閲覧しているデータは、レシピ集ばかりではない。プライベートフォルダから取り出され、開かれたファイルには、少女の顔写真が添付されていた。 人工島中学校の制服を着て胸から上を撮影されたその写真は、学生証めいている。そしてそこにはその蒼井ミナモと言う名の少女の身体データや学校での成績などが記されていた。 ――えええええ!? これには流石に彼も頓狂な声を上げていた。メタル接続状態なので、それは思考として流れてゆく。しかし誰かと通話回線を開いていた訳ではないので、その叫びは誰に聴かれるまでもなく、彼の電脳に響くのみだった。 ――妹の…何だこれ。いいのかおい。職権濫用してないかこの兄貴。 シルバーはそう独りごち、見てはいけない物を見てしまった心境に陥る。託体ベッドに横たわっている状況のため自重しているが、リアルでは頭を抱えたい気分だった。 個人情報の漏洩は何処の社会においても許されない行為であるが、それを血縁者が覗き見ようとしてしまうのも何処の社会でもありがちな行為だった。その動機は様々なものがあろうが、共通して何処か病んだものを感じさせる。 彼が久島部長の居場所を掴んだのは、その蒼井ミナモと言う少女の足取りからだった。そして彼女の兄が統括部長代理と言う事も知っていた。そのふたりが波留真理に繋がっているのだから、世界は狭いと思ったものだった。 しかし、その兄が妹に対して、ここまで情熱を注いでいたとは予想外だった。正直、知りたくはなかった事実である。 脅迫の文句には使えそうではあるし、おそらくレッド辺りに知らせたらそう扱うのだろう。しかしシルバーは10代後半の少年であり、そんな兄の態度には気味悪さが勝っていた。彼にしてみたら、これ以上触れたくはない暗部である。 そう言う事情で、シルバーは若干の間、視線とも意識ともつかないものをメタルから逸らしていた。その間にソウタはミナモのデータを閉じる。視界が開けた事に、シルバーは安堵した。 そして続けてソウタは別のファイルを開く。しかしそれは、またパーソナルなフォルダから選択されたファイルであり、今度は何だと少年はうんざりとした心境になった。 展開されたファイルは、ミナモのものと同形式だった。胸像写真が添付され、様々なデータがテキスト形式で書かれている。彼はまず目に付く画像を見て、思考が立ち止まった。そこを注視する。 それは、波留真理の画像データだった。しかしミナモと違う点は、2枚の画像が添付されている点である。そしてそれは、一見して全く別人のものだった。 1枚は黒髪の青年であり、もう1枚は白髪の老人。共通するのは穏やかそうな目許と、後ろで束ねられているものの肩に着く程度の長い髪。顔立ちからは、加齢すればこのような変化に至るのではないかと、画像比較プログラムを用いなくても判るようなものだった。 その間違い探しの逆転めいた2枚の画像にまず目を惹かれ、ついでシルバーはその文章を英語に対訳して読み進めていく。そして、それを理解するに従って、彼は徐々に目を見開いて行った。 それは、電理研付属メディカルセンターに保管されていた、波留真理の診察履歴だった。 |