隔離病棟の廊下を、蒼井ミナモは車椅子を押して歩く。
 彼女が今歩いている廊下は往路同様に行き慣れた道である。だが、後ろから従う覆面の男と目の前に見える久島の義体が装着した首筋のデバイスが普段とは異なり異様な雰囲気を醸し出していた。しかしそれもまた、往路と同様だった。
 唯一この復路が往路と違えて来たのは、久島が病院服からスーツに着替えた事である。そして彼がこの病棟でスーツを着た事は殆どなく、結果的に今の姿は目新しいものとなっていた。
 そんな風にして、ミナモが久島と覆面の男を引き連れてメンテナンスルームに戻って来ていた。そこには覆面の男が後3人立っており、壁際には白衣の人間達が座り込んでいる。その状況は、ほんの数時間で確立されていた。そしてそれは日が暮れるまでには解消される事を誰もが望んでいた。
 そしてミナモ達が戻ってきた頃には、そこに居るべき人員がひとり増えていた。ミナモはその人物の背中を見て、反射的に足が止まる。口を軽く開いたまま、固まってしまう。
 カラーコードで呼称し合う占拠グループのリーダーであるレッドの傍らには独りの仲間が立っていて、その彼が新たな参入者の左腕を掴んでいる。彼はその人物を特に拘束している訳ではないが、まるで連行してきたような印象を与えた。
 彼らは3人で並び、何かを話していた。腕を掴まれている人物は長い黒髪を纏め上げ、肩に届く位置に垂らしている。白い長袖シャツと藍色のジーンズに包まれた身体には、程好く筋肉がついていて逞しい。その容貌だけ見れば、ここを占拠している陣営の人間達の体躯と遜色ないように思えた。無論、占拠側はそれなりの体術を身につけている可能性が高く、体格に恵まれているからと言って素人が勝負を挑めるとも限らない。
 車椅子の車輪の音やいくつかの足音、或いはその姿を認めた人質達のざわめきを耳にしたのだろう。その黒髪の青年は最初には視線のみで背後を見やり、次いでゆっくりを首を巡らせた。結ばれた黒髪が翻る。
「――…波留さん」
 ミナモはそれだけの言葉を口にした。他に何を言っていいのか判らない。只、振り返って顔を見せた彼の姿を見ていた。流れる髪に紛れる彼の瞳が視界に入る。
 ふとその時、ミナモはその彼の姿に、何処となく違和感を覚えていた。しかしそこには根拠はない。只、何となく思っただけだった。
 ――波留さん、何だか冷たい感じがする。
 波留真理と言う名の青年は、振り向いた直後には一切表情を浮かべていない。無感動な瞳でミナモを見やっていた。口を真一文字に結び、何かを言おうともしていない。無遠慮なまでに彼女の方に視線を送り、そして傍らに居る車椅子の人物と新たに姿を見せた占拠者を認識しようとするかのようにじっと見ていた。
 ミナモは、その醒めたような視線を受け止めていた。彼女の記憶の限り、このような視線を受けた事は初めてだった。いつもの波留が送る視線はもっと優しく暖かなものであるはずだ。
 今日はどうしてしまったのだろう――ミナモは波留に対してそんな事を思うが、この状況の異様さではいくら波留さんでも緊張するかと思い直す。何せ周囲には銃を構えた犯人が居るのだし、彼の首筋にも金属製のデバイスが装着されていた。おそらく彼もメタルへの接続を妨害されているのだろうとミナモは踏んだ。
 ――こんな状況で、波留さんは一体何をするのだろう。メタルダイバーとしての技能は使えないのではないか?そんな事を思うのは、私が素人だからだろうか――?
 振り向き様に揺れた波留の後ろ髪が、ふんわりと勢いをつけて彼の首筋に触れる。そこに嵌め込まれたデバイスを覆うように掛かった。そして冷たい色を放っている金属に沿って流れ、落ち着く。大きな動きは止まった。
 その時点では、波留の口許が綻んでいた。目を細め、柔和な表情を浮かべる。そのままにミナモを見やった。
「――ミナモさん。お久し振りです」
 言いながら、波留は軽く目を伏せて目礼する。それは普段通りの会釈であり、まるで道端や電理研、或いはかつての波留の事務所で顔を合わせた時のような自然な仕草だった。
「…あ、はい」
 ミナモは頷くのが精一杯だった。周りに覆面の男達が監視して立っているこの状況下で、一体どんな顔をしていいのか、彼女には判らなかった。その表情には戸惑いの色が浮かんでいる。
 そんな少女に、波留は微笑んだ。彼はいつものペースを保ち、優しげな空気を周辺に振り撒いてゆく。僅かに眉を寄せ、その微笑みに気遣いを含ませる。
「ひとまずお元気そうで何よりです。不都合な事はありませんでしたか?」
 波留はそう尋ねつつ、胸に右手を当て一礼する。距離は若干離れているが、ミナモを覗き込むような体勢を取っていた。傍に覆面の男達が脅しつけるように立っている事など一切意に介していない。そもそも彼は左腕を掴まれているのだが、それについても無視を貫き通している。
 彼のそんな態度に、ミナモの緊張も緩和される。その少女も僅かに微笑み、頷いた。
「私は大丈夫です。それよりAIさんが――」
 台詞の最後にはミナモは視線を落とす。そこには車椅子に収まった状態でスーツを纏っている義体が居る。その彼は電理研統括部長である久島永一朗の脳核を保持し、その記憶と知識とを継承しているAIによって現在は稼動している。そして彼こそが、現代のこの状況下で渦中の人物となっていた。
 レッド率いる犯行グループは、久島の脳核を奪取するためにこの病棟を訪れていた。当初はそれを速攻で達成して脱出している予定だったのだろうが、様々な事情を経て彼らは病棟スタッフ達を人質に取る形でこの場に居座っている。
 とは言えそれは、当局ないしは電理研に対して耐久戦を仕掛ける上での立て篭もりではない。彼らの目的を達成するためには条件を整える必要が生じてしまい、その準備のためにこの病棟を占拠せざるを得なくなったのである。そしてその準備は、波留の来訪によってようやく達成されようとしていた。
 久島の義体は自らの病室を出た頃からずっと俯き加減に座っていたが、ミナモのその台詞に指名されたかのようにゆっくりと顔を上げる。瞼を上げ、そのふたつの義眼で波留やレッド達が立っている前方を無言のままに見据えた。
「ああ――」
 波留はその様子にも微笑み、鷹揚に首肯する。立っているミナモから視線を軽く下げ、車椅子の義体に合わせた。胸に手を当て畏まった姿勢のまま、一歩を踏み出す。
 しかしそれには流石に犯人側が反応し、押し留めるように腕を強く掴んだ。波留を引き戻そうとする。波留もそれに反応し、重心を足元に移動させた。踏み出すその足を結局移動させず、その場に留まる事を選んだ。そして自分を留まらせた男を確認するように、ちらりと背後を見やる。
「波留さん」
「構いません。ミナモさん」
 心配げなミナモの声を耳にした波留は、微笑を浮かべた。そして周辺を見渡し、右手を下ろす。頭を下げ、その手を前に差し伸べた。やはり腕を掴まれている事など全く気にしていない様子である。彼は自らのペースを保ち続けている。
 そして彼はその体勢で、ミナモに呼び掛けていた。あくまでも優しい口調を維持したままだった。
「それよりミナモさんも、彼を連れてこちらにいらして下さい」
「…え?」
 当初、その波留の申し出は自分に向けられたものだとミナモは気付かなかった。怪訝そうな表情を浮かべる。首を傾げ、波留を見た。それに波留はくすりと笑う。ミナモに促すように軽く頷いた。
「あなたも彼に指名されているのですよ?僕だけでは作業は出来ません」
 それを述べた後、波留は隣を見た。同意を求めるように、そこに立っているレッドに視線を送る。黒い覆面に隠されている瞳に当たる部分を見やり、不可視の視線を合わせた。
 レッドはその視線を受け、無言で右手を挙げた。自らの胸の前に掌を持って行き、自分の方へと振る。彼らを手招きするような素振りを見せた。波留の意見に同意した様子である。
 
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