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「――波留さんが」 ミナモは口の中で小さくそう呟いていた。拳を握り締める。軽く身じろぎするが、それだけである。ブラックと呼称される男に何か言っても無駄だと判っていた。彼はあくまでもリーダーたるレッドの指示に従っているに過ぎないのだろうから。 ブラックは顎でしゃくってミナモに何らかの指示を行う。彼の視線は久島と車椅子を薙いでおり、早くそいつを座らせろと言いたいのだろうと思われた。 彼のその態度に、ミナモは立ち止まる。すぐに従っていいものか迷ってしまった。何せ、メンテナンスルームに戻ったら、いよいよ「酷い事」が待ち構えていそうなのである。それはこのAIにとってもそうだが、新着の波留にも訪れるような気がしてならなかった。 そのように逡巡している少女の傍らから、冷静な声が響いてきた。 「――行こう。蒼井ミナモ」 その声に、ミナモはゆっくりと視線を落とす。褐色の髪に覆われた頭を見やった。 久島の義体は真正面を見ている。ミナモを見上げる事はしていない。 「波留真理ならば突破口を見出すはずだ」 義体のその言葉をミナモは耳にする。ふと、見下ろしている久島の髪が乱れている事に気付く。割と長い前髪が枝分かれするように額に張り付いていた。髪そのものや顔を掴まれ振り回された挙句に汗を掻いてそれが蒸発するに至り、妙な型がついた状態で収まってしまったのだろう。 そんな風に、彼女は現状からはどうでもいい事に気付き、そっと右手を伸ばす。久島の頭頂部に指を差し込む。指の腹に頭皮を感じつつ、手櫛でゆっくりと彼の髪を掻き分け梳いた。 「波留さんの事、信頼しているんですね」 「久島永一朗の記憶が私にそう告げている。この上ない根拠だ」 目を細め言うミナモの言葉にも、久島は真正面を見据えたままだった。髪を梳かせるままに任せる。水分が蒸発する刹那に纏められてしまっていた髪の房が分かれてゆく。前髪が綺麗に整えられる。 「何にせよ、私は彼に全権を委ねる道を選んだ。彼の成す事には只従うまでだ。それがどんな結果を招こうとも、私には異存はない」 ――それは、久島さんにそう設定されたからですか? ミナモはそう問い掛けたい気持ちを、飲み込んでいた。 脳核を抜くための手順として、久島は波留とミナモの同席を指定していた。つまり久島当人にしてみれば、そのふたりの前でならばこのAIにはどんな事をさせても良いと言う事になる。究極的には「殺す」事すら許されるのだろう。 このAIは、おそらくはその設定に従って、その道を選んでいるのだろう。しかし、願わくば、ミナモとしては彼には「人間」で居て欲しかった。本当に信頼した上で、波留を頼っているのだと思いたかった。 波留と久島の関係性そのもののように。 それはとても、誰かが割り込めるようなものではなかった。それを、彼女はあの流星群の夜に痛感していた。 それでもその関係性を、今ここで導き出して欲しい。ここに居るのは久島当人ではないにせよ、同様に「いいひと」なのだから。 ミナモは人知れず、唇を噛み締めていた。久島の頭に差し込んでいた右手が動きを止める。 そして彼女はゆっくりと右手を上げた。彼の髪から抜いてゆく。 「ちょっと待って下さいね。車椅子のシート、軽く拭くから」 ミナモは久島とブラックとを交互に見ながら、そう言う。彼女は努めて明るい態度を取っていた。そうある事が自らに課せられた使命であるかのように。 |