それでミナモの気は治まったらしい。依頼された任務に再び集中し始める。ベッドに腰掛ける義体の足元に跪き、足首に触れてそこに靴下を履かせた。動かない脚ではあるが体温は保たれている。
 更にミナモは立ち上がり、隣にいるチェックに気が済んだ監視係からスーツを受け取る。その中からスラックスを引き出し、乱暴に扱われていたそれをひとまず引っ張る。そこに寄った皺を伸ばした。
 そして再び義体の前に屈み込み、それを穿かせた。足元から一気に引き上げる。身体の自由が殆ど利かない義体だったが、重心移動などでの対処は可能だった。自分に出来る手段でミナモに協力する。
 四肢が動作出来ないにしては、生身のように痩せ細ってはいない。義体としての外見の設定上に、その麻痺状態は反映されていないためである。それが、ミナモが以前介助していたあの車椅子の老人とは違う点だった。見た目では健康体そのものである人工の有機体で構成された義体を、徐々に衣服で包んでゆく。
「――大体、久島さんだって酷いんですよ」
 不意に、ミナモが久々に言葉を発した。その頃には彼女はスラックスの中にシャツを入れベルトで留め、ベストを羽織らせている段階だった。
「…何故」
 義体の口から短い言葉がついて出る。この場合の「久島さん」とは、彼女にとっては誰を指しているのか。義体には推測は成り立っていたが、それは確実な答えとは言い難かった。だから彼は単純な疑問を言葉にしただけだった。
 その問いがミナモを刺激したようだった。ベストを整える両手が勢い良く引かれる。思わず力が篭ったらしい。そして口から発せられる言葉は、声を荒げたものだった。
「だって、知識を守るために脳核焼いちゃうって!そんな事したらAIさんまで死んじゃうし、そうでなくともそんなパパニーニみたいな事していい訳ないよ!」
 その状況に、ミナモは過去の記憶を刺激されていた。それはこの10月初頭にアイランドにて訊いた話題である。自分の秘密を守るために死を直前にして譜面を焼いたと言う、その過去の巨匠のエピソードを今ここで思い出したのだ。
 ミナモはアイランドでその話を訊いた時点で既に、その巨匠の考え方には同意出来なかった。しかし今日、彼女が信頼していたはずの久島永一朗が同一と言える手段を選択肢としていたと教えられたのだ。
 彼女にとっては一個人であり他者たるAIの存在すら巻き込むのだから、過去の巨匠よりも性質が悪い。だからより一層、感情を刺激されてしまう。――そんな酷い事をするような人だとは思っていなかったのに。裏切られたような心境に至ってしまっていた。
 一方、その怒りを告白された久島の義体は、彼女の顔を只見ていた。何処となく唖然とした印象である。
 彼としては、少女の怒りに触れた件についてはひとまず置いておく。それよりも前の段階で引っ掛かりを覚えた箇所があるからである。
 それは明らかに間違っている事柄である。しかしミナモは堂々と発言し、勘違いに気付いている様子はない。それでも、彼が自らの電脳に抱えている通常の知識において、それは充分に指摘可能な間違いだった。あまりに真っ直ぐな瞳に気圧されつつも、彼はそれを指摘する。
「………パガニーニか?」
「あ、多分そうです」
 ミナモは義体からのその端的な訂正に、あっさりと同意した。激昂した言動を取っていた直前と、態度の落差が凄い。少女の不思議言語センスと相まって、それに義体は拍子抜けした。何も言葉を続けない。
 それ以上、この話題は続かなかった。ミナモとしてはこの「AIさん」を責めても何もならない事だと判っていた。そして設定上「久島さん」には反論出来ないのだと、彼女も流石に直感的に理解していたのかもしれない。
 そのままミナモは久島の義体の身嗜みを整えてゆく。スーツ一式をジャケットまで着せ、靴はやはりクローゼットの肥やしと化していた革靴に履き替えさせる。
 ベッドに腰掛ける姿は彼のオリジナルの存在を思い起こさせるものとなっていたが、首筋のデバイスが邪魔なためにシャツは襟元までボタンを留められず、それに付随してネクタイも緩めにしか締めていない。そこがミナモには気に入らないのだが、義体はどうしようもない事だと彼女を慰めていた。
 それからミナモは、膝の上にある義体の両手を見やった。袖口から覗く左手首には相変わらず古ぼけたダイバーウォッチが嵌められており、少女はそこに意識が惹かれる。しかし、今見るべきはそれではない。
 ミナモはそっと義体の右手を取り、自らの掌で挟み込むように持ち上げた。顔に近付け、覗き込む。そこに広がる光景を至近距離で確認し、彼女の顔が歪んだ。
「――爪、割れちゃってますよ」
「…ああ、そうか。酷使してしまったか。それ程脆い素材ではないはずなのだが」
 義体はそれに初めて気付いたような口調だった。確認するように指を持ち上げる。彼としてはそこには痛覚は存在しないため、爪が割れようが剥げようがその情景が視覚として認識されなければ全く意に介する要素はなかった。
「大丈夫だ。多少のひび割れなら、数日中には自己修復する。そうでなければ義体技師に依頼して新しい爪に交換して貰えばいい」
 ミナモに指摘されて目視した彼は、その結論を口にしていた。淡々としたその口調に、ミナモは顔を歪める。自分が爪を割った時に訪れるであろう痛みを想像すると背筋が凍ったからだ。
 更にさらりと爪の交換だとか言われると、そのためには割れた爪を剥がした上で新たな爪に貼り替えなければならないと、彼女にも想像がつく。そしてその様も自分に当て嵌めてしまうと、ますます顔が歪んでしまう。
「…痛そうです」
「私にはその箇所に痛覚は備わっていないから、安心しろ」
 手を取っている少女がとても痛々しい表情を浮かべているのに対し、義体は自らの設定を指摘していた。しかしそれにもミナモの顔は晴れる事はない。
「駄目です。せめてテーピングしておきましょう」
 少女はそう言って、ゆっくりと久島の右手を膝の上に戻した。ちらりと視線を隣に向ける。
 そこにあるサイドテーブルの引き出しには救急キットも備えられているはずで、それを使えば簡素な手当が出来るはずだった。無論ここには、あくまでも人間用の手当のキットしか備え付けられてはいない。
「…確かに上から覆って保護すればこれ以上割れる事もないだろうが、義体である私にはあまり意味がない事だぞ」
 果たして、義体は戸惑うようにそう答えていた。人間用の手当を受けた所で、彼は治癒する訳ではないのだから。
 人間用の手当であっても、それを用いて物理的に保護されたならばそれ以上の割れを阻止する事は可能だろうが、おそらくこの少女にとってはそう言う問題ではないのだろう。彼にはそこまで推測出来ていた。
 そんな彼に、ミナモは振り返った。振り向き様のその表情は、うんざりとしたものとなっている。彼女は腰に左手を当て、右手では義体の顔を指し示し、言う。
「だから――言ってるでしょ?人間と同じだって心持ちで居なきゃって」
 ミナモのその台詞に、義体は口篭った。またそんな事を言われてしまった事を自覚する。彼女の態度もまた、以前と同様だったのだから。
 しかし、彼はふとミナモから視線を外した。部屋のもう一方の奥に向ける。ミナモもそれに釣られる。
 彼らの視線の先では、監視役として付き従ってきていた覆面の男が黙り込んでいた。彼は中空を見上げ、耳元に手を当てている。ミナモは人工島住民として、それは電通を行っている人間が良くやる仕草だと判っていた。
 彼がその仕草を行っていたのは、1分も掛からない時間だった。やがて彼は久島達に向き直る。銃口を軽く向けつつ、口を開いて英語を発した。
「――波留真理がやって来たそうだ。お前達にもメンテナンスルームに戻って貰う」
 
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