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銃を構えた覆面の男が追って歩いてくる事と、久島の首筋に金属製のデバイスを装着されている事を除けば、メンテナンスルームから久島の病室へ続く廊下の道程を車椅子を押しながら歩いていくのは、ミナモにとっては日常だった。しかしそのたったふたつの相違点は物凄く重いものであり、結局彼女の気は晴れていない。 ブラックと呼ばれたその男は、当初にレッドが病室に乱入してきた際に伴っていた男であり、ミナモにしてみたら僅かながらの顔見知りではある。しかし、それは何の慰めにもならない。むしろその当初からレッドと共に久島の義体を痛め付けた張本人であり、それを思うと無心ではいられなかった。 車椅子を押す彼女の眼前では、久島の義体が項垂れて沈黙している。うたた寝でもしているかのように、車椅子の僅かな揺れに頭を揺らす。何時の間にかにそうなってしまっていた。 移動の許可を貰った後、また眠ってしまったのだろうかとミナモは思う。確かに顔色は未だに全快していないのだから、休める時には休んだ方がいいだろう。少女はそう考え、彼に話し掛けて睡眠を妨害しようとはしなかった。 そのうちに病室の前に辿り着く。ミナモは扉の前に車椅子を止め、ちらりと背後の男を見た。覆面の男は顎をしゃくって彼女に開けるように指示する。それに従おうとするが、ふとミナモは自分の端末をレッドに徴収されたままである事を思い出した。 ――しまった。これじゃ開けられない。 ミナモはそれに気付いていた。念のために扉に手を掛けて引いてみるが、びくともしない。メタルへの接続が復旧している以上コンソールによる自動施錠もしっかりと働いていた。 これを開けるためには通過パスを必要とする。ミナモはこの病室にて久島の介助に当たっていたのだから当然そのパスを所有していたが、それはペーパーインターフェイスに保存されていた。 電脳化している人間ならば電脳にパスを保持し、その人間そのものが鍵として存在出来る。しかし彼女は未電脳化者である。端末に鍵を保存して使用する以上、その端末を持っていなければ鍵を忘れたも同然だった。 ――もしかして、どうせ不可能だから、あの人は行っても良いと認めたのだろうか。ミナモはその可能性に気付いていた。だとしたら、やっぱり意地悪で酷い人だと思う。もっともそれは未電脳化者である少女からの言い掛かりであり、現状の多忙さ故に、彼は電脳化している人間の思考から逃れていなかった可能性も高かった。 ともかく使い慣れているはずの部屋のコンソールを前に、ミナモは立ち往生していた。背後の男は沈黙を保っているが、あまりにここで躊躇していては何かを企んでいるのではないかと疑われるかもしれない。そうなっては、また「AIさん」に酷い事をされるかもしれない――ミナモはその恐れに行き着く。だから言い訳をしようと、振り向こうとした。 「――蒼井ミナモ」 その時、彼女は再びその名を隣から呼ばれていた。それは聴き慣れた声ではあるが、現状では掠れて小さい声となっている。その声に視線を落とすと、車椅子に収まった義体が少女に視線を向けていた。彼の蒼ざめた唇が静かに動く。 「開錠は私がやろう」 「AIさん。大丈夫なんですか?」 ミナモは心配そうに彼を覗き込み、そう尋ねる。彼女の「大丈夫」との問いには様々な意味合いが含まれていた。問われた方は、ひとまずその直接的な意味合いを汲み上げる。 「この程度の操作なら、デバイスも妨害しないだろう。開錠コードすら送信出来ないのでは、波留真理が来てからの作業に支障が生じるからな」 義体の台詞の冒頭に、ミナモは彼の首筋に装着されているデバイスを見やる。しかしその後に続いた言葉で、その名を聴いた瞬間、彼女の瞳が不安定に揺れた。気付いたように軽く息を飲む。 そんな少女の確実な動揺の表れを、義体は自らの義眼に映し出していた。彼自身は無感動な色しか湛えていないその瞳を彼女に向けた後、視線を落とす。肘掛けに置かれたままの右手を見やった。 「只、この手を支えていて欲しい。今の私では、通常時以上に動作させるのが辛い」 義体が発したその台詞に、ミナモも視線を落とした。彼の右手を見る。その手は微かに震えていたが、動こうとしているのは指先のみだった。腕自体は一向に上がろうとはしない。動かそうとはしているのか、それともそれすら諦めているのかは、見ているだけのミナモには把握しかねた。 ミナモは義体に対して頷いた。両手を彼の右手に沿え、ゆっくりと丁寧に持ち上げる。手首から伝わる体温は、若干低い。その際に触れた肘掛けに、引っ掻き傷として毛羽立った感触を覚えた。 ふと右手を間近で見やると、その指先の爪がいくつかにひびが入り、割れていた。そこに、僅かに白い液体を染み出させている。爪の先端には落ち着いたベージュの繊維が入り込んでいるため、どうやら肘掛けを掻いたり強く掴んだ際に痛めたものとミナモは判断した。反射的に彼女の方が痛みを覚え、顔が歪む。 しかし今はそれを優先すべきではない。ミナモにはそれも判っていた。持ち上げた久島の右手を、そのまま扉の隣に位置する半球形のコンソールに触れさせる。掌でその球を覆うように上から押さえた。 自らの掌がしっかりとコンソールを捉えた事を把握したらしい。久島の義体はゆっくりと瞼を伏せた。機能制限されている電脳から開錠コードを送信する。 コンソールが僅かに明るい光を発する。その光がコンソールを覆う久島の掌を透過した。間近に立つミナモはその光を顔に当てつつも、様子を見ている。 光が点灯したのは数秒間だった。何かが外れるような微かな音がミナモの耳に届く。 「――開錠した。もういい」 淡々とした義体の声を聴き、ミナモはゆっくりと彼の右手をコンソールから外した。掌を覆うように持ち上げ、そのまま肘掛けへと戻す。 その際にひび割れた爪が気になったが、ひとまずそこから視線を外した。車椅子の背面に立ち、持ち手を握った。すると扉が自動的に起動し、すっと静かに開いていた。室内に誰も居ない事で自動的に消灯されていた病室から、僅かに冷たい空気が流れ出してくる。 ミナモはそれを顔に感じつつ、ゆっくりと車椅子を押す。確実な一歩を踏み出し、車椅子の車輪が廊下と部屋の間にある僅かな段差を捉え、ほんの少しだけ揺れるのを感じた。 |