|
――ですから、あなたのお力を借りるためにこうしてご足労頂いている訳です。勿論、その代償として、金銭的な補償はしましょう。この程度しかお支払い出来ませんが…。 そこで、彼の電脳が視覚的に操作される。決済画面が展開され、そこに金額が提示されたダイアログが出現してきた。何者かが彼に対して電子マネー形式で金銭を授与して来ようとしている。 そこに提示された金額は、彼にとって、莫大と言って良い額だった。具体的に考えるならば、現在の生活を更に10年は保証するような金額である。無論、只食い潰すばかりではなく、この金額があれば人工島外で人生をやり直す事も可能だろう。 ――…こんなに。 彼はそんな思考を漏らしていた。今の彼は、唖然としていたと表現出来る。こんな金額をぽんと提示出来るとは、このハッカーは一体どれだけの金を自由に出来るのか。もっとも、ここまで凄腕のハッカーなのだから、この金もデータを操作して得た不正なものである可能性も否定は出来ない。 ――無論、あなたの技術料としてお支払いするだけではありません。様々な意味での口止め料なども含まれているとお思い下さい。僕があなたをこうしている事も、依頼の内容も、他言無用です。 ハッカーの思考は冷静である。提示した金の真の目的も言い含めてきていた。それを前に、彼はつい言わなくてもいい事を言ってしまう。 ――もし、私が受けなかったら? ――実は、断られる事も通報される事も視野に入れていません。あなたは僕に従って下されば、それでいい。もし、そうなさらないと仰るなら、このままあなたの電脳を焼きますよ? それは、とてつもなくさらりとした口調だった。そこに殺害の可能性を含ませてくるのだから、空恐ろしさがある。仮に、殺したい程に恨んでいるとは言え、それを実行するに当たって心の壁は存在しないらしい。或いは、そう感じさせるだけの恐怖を、ハッカーはこのハックしている彼に与えていた。 しかし、これは現実味がある言葉である。何せ今、彼はそのハッカーに身体の動作権限を握られているのである。彼は義体ではなく生身の身体なのだから、それは技術的にはかなりの荒業だった。 ハックした挙句にここまで滑らかに身体を操っているのだから、電脳のかなり深い領域まで枝をつけられている事は明白である。その回線に、高圧電流をフィードバックされたなら、終わりだろう。彼は容易く殺される。そしてここはハナマチであり、そんな無法地帯で誰かが脳を焼かれて死んだ所で捜査の手は真相までには及びそうにもなかった。 ――久島をあんな目に遭わせたあなたなんぞに接触しているのです。僕には手段を選んでいる余裕も暇もないのですよ。それを鑑みて頂けると、幸いです。 淡々とした電通が彼の電脳に届いてくる。このハッカーには、彼を殺すだけの動機は存在し、脳を焼いて殺害するだけの手段は技術的にも裏打ちされている。更に、この環境では殺した所で捜査の手は及ばない――現在ハックされている彼にとって、とてつもなく分が悪い状況だった。 ――僕は、あなたと交渉しているつもりは全くありません。これは命令…いいえ。脅迫と受け取って頂いて、一向に構いません。 開き直ったかのような言葉である。自分が何処まで非道な事をしているのか、その自覚をこのハッカーは充分に持っているらしかった。 そんな脅迫と自覚した依頼を訊いているうちに、彼の身体はハナマチの雑居ビルに足を踏み入れていた。入口にある管理人室めいた区画に居る中年の男に手をかざし、情報と金銭のやり取りを行う。無論、ハックしている人物が勝手に彼の身体を操作してやっている事である。 彼はそのまま中年男性に背を見送られ、ビルの奥へと歩いていく。階段を昇って行くと、フロア毎に小部屋がいくつか存在している様子だった。その様相から、彼は託体施設かと判断する。 ハナマチには託体屋と呼ばれる施設が数多く存在する。メタルに安定して接続するために、専用の託体ベッドを貸し出し利用させる施設の総称である。 それは何もハナマチに限った商売ではないのだが、メタルに常時接続可能な環境にある人工島では、固有の場所から敢えて有料で接続するのは、余程の大規模コンテンツや長時間の利用を行う人間となる。そうなると店ごとに独自に提供されるコンテンツに惹かれて託体屋を利用する人間が大半を占め、ハナマチとはそのようなグレーゾーンに片足を突っ込んだような非日常を味わえる場所だった。 託体屋は、オープンな店舗に託体ベッドを並べただけの最低限の機能のみを提供する店が簡単に利用出来る。しかしそれだけではなく、プライバシーに配慮した滞在型の施設を有した託体屋もこのハナマチには数多く存在した。その場合、雑居ビルを丸ごと所有して、その部屋ひとつひとつを貸し出す形式になる。このビルもその手の託体施設だと思われた。 身体はその中の扉のひとつを前に立ち止まる。そのノブに手を掛けた状態で、身体がフリーズした。それに彼は戸惑う。一瞬身体の操作から解放されたのかと思ったが、やはり彼はその手を動かす事は出来ない。未だに支配下にあるようだった。 そこに、ジャミングが掛けられたままの音声で、宣告が届いた。 ――で、僕からの依頼、受けて頂けますね? それは質問ではなく、確認としての問い掛けだった。もし断れば――先程このハッカーが宣誓した通りの事をやってくるのだろう。 何もここに立ったままの状態で脳を焼くまでもない。この施設内に入り、ベッドに横たわってメタルに繋ぎ、メタル内に点在しているアンダーグラウンドの致命的なコミュニティに「自発的に」接続してしまえばいいのだ。それで全ては容易く終わってしまう。彼はそう理解した。 彼は沈黙の後に、電通を飛ばす。覚悟を決めるしかなかった。 ――…私には選択肢はないだろう?どんな依頼か知らないが、受ける他ない。 ――ありがとうございます。仕事が済み次第、先程提示した金額は必ずお支払いしますし、あれ自体は違法な金銭ではない事をお約束します。あなたに後ろめたい事は何も残らない。その点については御安心下さい。 彼が依頼を受けると訊いたからか、口調が幾分柔らかになったような気はした。しかし、脅されている事には変わりはない。――ああ、また私は流されるのか。そうやって酷い目に遭ったと言うのに。しかし私はしがない一市民だ、何が出来ると言うのか――彼はそんな事を思っている。 彼の手がノブを掴み、力を加える。それは容易く回転し、腕の力で押す事で扉が開いて行った。 その室内は薄暗く、奥まではなかなか見渡せない。しかし、どうやら託体ベッドは置かれている。やはり託体屋で間違いはないようだった。 彼は身体を滑り込ませ、そのまま扉を閉める。この部屋を外界と隔絶させた。部屋をレンタルさせる形式の託体屋では、室内で起こる事は一切関知しないようにするのが不文律である。だから、必ずしもメタルに接続するためにレンタルする人間ばかりではない。 彼がそう思っていると、部屋の奥に誰か人影が存在する事に気付いた。彼の思考は驚き、身じろぎする。しかし操作されたままの身体はそのまま歩みを進め、その人影の元へと至った。彼を認め、人影が頭を下げる。 「――お待ちしておりました。マスター」 その女性の音声に、彼は限られた視界で状況を確認しようとした。 彼の身体の目の前には、長い黒髪をポニーテールにした眼鏡の女性が立っている。彼女はネクタイを巻いたブラウスに黒のタイトスカートと言ういでたちだった。 彼女の顔を注視すると、それが公的アンドロイドである事に彼は気付く。タイプ・ホロンの顔立ちそのものだったのだ。しかし服装は他の人間と同様で、特に何処かの組織の制服を纏ってはいない。 ――違法の横流し品か?ふと、そう思った。ここはハナマチなのだから、そう言うアンドロイドが居てもおかしくはない。しかし、何故――まさか違法な風俗を楽しむために、自分をハックした訳ではあるまいに。 そのタイプ・ホロンが、横目で傍らのケースを見やる。その上に手を置いていた。 それに、彼も釣られた。或いは身体を操るハッカーが、そちらの方を見るように顔の向きを変えた。 そこに置かれていたのは、人間ひとりが入りそうな棺桶めいた白いケースだった。 |