その彼は、商業区画を歩いていた。
 ビジネスマンのように背広姿ではあるが、若干猫背で歩く姿は冴えない人物と表現できた。その服を着慣れていない印象を醸し出している。それでも土曜の昼下がりの賑わいの中を歩いていても一般人達に紛れ込むだけの平凡さを保ってはおり、疲れた雰囲気を振り撒きつつも彼は淡々と歩いている。
 7月から、色々と大変な出来事があった。
 淡々とした日常に身を置くと、彼は自然にそこに思考が行き着いてしまう。
 彼は上の指示には従う事しか知らなかった。それこそが自己保身になると信じていた。電理研系の技術者ではあったが、それでも他の機関からも声が掛かる事態は喜ばしい事だった。自分はそれだけ多様な機関から認められていると言う評価に繋がったのだから。
 やがて彼は、電理研ではない組織から密かに指示を受け始めていた。それは当初はごく当たり前な業務の一環であり、むしろ電理研の業務を手助けするような情報を受け取っていた。互いは協力しているのだと――自分がやっている事に間違いはないのだと、彼は信じ喜んだ。
 しかし、それがやがて徐々にずれ始めてゆく。ふと気付いた頃には、明らかに法に触れ電理研の利益をも侵す指示を与えられていた。その時点では流石に彼もおかしいと気付く。しかし、最早遅かった。彼はずるずると泥沼に引き摺り込まれ、すっかりスパイとして仕立て上げられていたのである。
 そうなってしまった時点では、その泥沼からの足抜けなど不可能だった。彼が自分の罪を認めたならば、電理研への告白などにより泥沼から抜け出す事が出来たかもしれない。しかしそれは、喩えるならば自らの両足を切断して泥沼から逃れる行為である。彼にそんな度胸はなく、そのまま後ろめたさを抱えたまま、電理研を背任し続ける事となった。
 ――あれは、私の意志じゃない。
 上から言われた事をやっていただけだ。だから、私は何も悪くないんだ。
 彼は、遂に裏切りが発覚したその件について、そう自己弁護を繰り広げている。
 捜査権を持っていたのが評議会であった事が救いとなったか、彼は電理研からの追求を逃れていた。そのままなし崩し的に解雇処分とされ、その他の公職からも追放された身分となっていた。
 こうなると人工島に留まる理由もないのだが、彼を雇おうとする企業もなかなか名乗りを上げてこない。電理研を裏切り睨まれたとの認識は外国企業にも広まっており、そう言う前科持ちの人間を自分の陣営に引き入れてもまた同じ事をするのではないか――社会とはそのような判断を下す所だった。
 彼にとって幸か不幸か、今まで電理研が与えてくれた俸禄は贅沢に走らなければ人工島で生活するにも数年の猶予を与えてくれるだけのものだった。彼はそれに甘え、地底地区に居を移し、閉塞した生活を送っていた。それを使い切るまでには方針転換を必要とされるが、まだ3ヶ月経過したばかりである。そこまで考える事は出来なかった。
 そんな自己弁護と後悔の元に生活を送り、今日は久々に商業区画に顔を出したはずだった。
 が、そんな彼がふと気付いた頃には、目の前の風景が変わっていた。
 その時、彼は水上バスに乗っていたのである。
 しかし、彼にはそんなものに乗ろうとした記憶が、一切なかった。まるで寝こけていたのにふと目覚めた時のように、流れてゆく左右の風景を彼はぼんやりと眺めている。
 やがてその水上バスが進む水路は、奇妙に影が差してくる。向こう側に見える建物も人工島にしては猥雑な印象で、原色が惜しげもなく使われたどぎつい代物が多くなってきた。
 バスが停留所に停泊する。予定された航路であり、客の乗降も普通に行われていた。彼はそれを眺めている。
 すると、彼の視点が不意に持ち上がった。そして軽く揺れて行き、彼の左右には水上バスの座席が流れてゆく。
 ――自分は通路を歩いている。彼がそれに気付いた時には、水上バスの乗降口のコンソールに手をかざしていた。降車手続きが行われ、バス代が支払われて行く様を、彼は自らの電脳内に表示された残高表示にて把握していた。
 そして彼は、水路沿いの歩道に足を下ろしていた。僅かに揺れる船の床から、しっかりとした舗装面と、靴底から伝わる感触が変化する。それを彼は感じ取っていた。
 だと言うのに、このふわふわとした感覚は何だろう。そもそも自分は、こんな事を望んで動いてはいない。まるで夢の中に存在する自分を見ているような――その感触に似ていた。
 それでは自分は夢を見ているのだろうか。やはり何処かでうたた寝でもしていただろうか。夢の中に居る自分を自覚しようとしてみるが、それにしては決済ダイアログの表示がやけに鮮明だった。
 彼の身体は確実に歩みを進めてゆく。その行く手には、まるで城壁のように区画を取り囲む壁があり、その傍らには廃棄されたかのように路上に姿を表したまま動作停止しているパブリック・ガーディアン達が転がっていた。
 そしてその城壁の切れ間たる入口部分には、「花街」と漢字表記された看板が掲げられている。
 彼の思考はその文字を認め、一瞬躊躇した。そこは歓楽街であり、一般島民も訪れる事がある区画ではある。しかし商業区画で用を済ませられないような店が乱立する区画のため、治安は人工島随一の悪さを誇っている。日中だからまだマシかもしれないが、用もないのに立ち入りたくはない場所だった。
 しかし彼の思考をよそに、彼自身の身体は躊躇なくその門構えを潜り抜けて行く。
 夢でないのなら、これではまるで――。
 彼がそう思った時だった。
 不意に彼の電脳内に、ダイアログがポップアップしてきた。それは電通用の回線だったが、彼の許可を待たずに勝手に接続されてくる。そのダイアログには認証コードが表示されていたが、それも暗号化されているのか全く読み取る事が出来なくなっていた。
 ――初めまして。不躾ながら、お願いしたい事がありまして。
 彼の電脳に、その声が響いてくる。それにはジャミングが掛けられており、身元を明らかに出来るような情報を含ませていない。しかし音声自体は鮮明に聞き取れるようになっており、雰囲気は穏やかなものだった。
 ――…誰ですか、一体。これはあなたが…。
 ――はい。申し訳ありませんが、あなたをハックさせて頂きました。今あなたの自由が利くのは、その思考のみかと思われます。
 穏やかな口調のままさらりと言い放たれ、彼は絶句する他ない。しかしそれが真実ならば、現在の状況に全て説明がつく。
 ――…こんな事をして許されると思っているのか?私が通報すれば…。
 ――なさりたければ、回復した後程にでもどうぞ。でも、ここはハナマチです。PGを始めとした警察組織が当てにならない場所だと、人工島住民ならば御存知のはずですが?
 余裕をもった返答が帰ってきた。それに彼は返答出来ない。今は電脳すら支配下に置かれているために、電通での通報は不可能である。そして解放された後に通報したにせよ、ハナマチがそう言う場所である以上、捜査には多大な労力を必要とする。もし「単に一個人がハックされて歩き回らされただけ」ならば、警察は大した事もせずに捜査を終了させるだろう。彼らには、他に抱える重要案件はたくさんあるからである。
 彼を支配している相手は、それを見透かした上で、このような事を仕掛けてきている。ハックを掛けてくるだけあって、用意周到な人間であるようだった。
 そして、ハッカーは淡々と続けてくる。さりげない口調でそれを告げた。
 ――それに、あなたが久島部長の脳核を初期化した事に較べたら、些細な問題です。
 その台詞に、彼の思考は立ち止まり、乱れた。身体は相変わらず確実な歩みを進めているのだから、つくづく彼はその内部で乖離している。
 ――…あんた、何故それを知っている。
 彼は問う。自分がそれに関わった事実は、評議会によって半ば揉み消された形になっているはずだった。少なくとも一般報道ベースには乗っていないからこそ、彼は石を投げられ追われる事態に陥っていないのである。「人工島の神」として崇拝の対象にすらなっているその人物を、人格的に暗殺しようとした人間だというのに。
 それが公表されていないのは、技術者ひとりをスケープゴートにしても何の解決にもならない事態に陥っていたからである。その技術者の存在を闇に葬る事が、事態収拾への最適なプロセスであると、人工島を運営する様々な人々の意見の一致を見たのだ。
 結果的に「首謀者」と目される評議員を逮捕した事により、この事件は収束へと向かう。或いは、向かうように仕向けられた。それが人工島を揺るがした、久島部長誘拐事件の結末である。
 だというのに、このハッカーはその隠された事実の一端を知っている。それは一体どう言う事なのか。彼は疑問に思う。――評議会の捜査ログをハックしたのだろうか。それとも、今、この自分の記憶を抜いたのか?相手が相当な技能のハッカーである以上、可能性はいくつか考えられた。
 彼の問いに対し、ハッカーは僅かに沈黙する。そしてその後に、静かな思考を発してきた。
 ――…実の所、僕自身はあなたをこのままどうにかしてしまいたい。久島の無念を晴らしてやりたい。しかし、あなたに今何をしても、久島が戻って来る訳ではありません。
 押し殺すような思考が届き、彼は慄然とした思いに駆られた。そこには僅かながらも、明らかな敵意――いや、殺意と言っても差し支えがないような感情が感じられたからである。
 それを押さえ込んでの冷静な口調なのだから、その覆いを取り払ってしまえば何処まで凄まじい感情を滾らせているのか。それを考えると、彼はそのハッカーに恐怖すら感じていた。
 そもそも神たる「久島部長」を呼び捨てにするような人物である。そんな人間はこの人工島には滅多に居ない。余程近しい人間なのか、或いはストーカーのように一方的に近しいと思い込んでいるのか、逆に敬称で呼ばないような敵対関係だった人間が奇妙な連帯感を持ち合わせたのか――どの可能性でも、久島自身に相当な思い入れを持っている口振りである。
 そしてやろうと思えば、本当に「無念を晴らす」事も可能な技術レベルを保持している。極めて危ないハッカーであるように、彼には思われた。
 
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