ミナモは、傍に立っているレッドが彼女のペーパーインターフェイスを耳元から下ろすのを見ていた。
 彼は音声通話を行っており、ミナモにもその内容は聞き取れていた。どうやら通話相手はソウタであり、この病棟の状況を伝えた挙句に波留をここに呼び出そうとしている――その流れを、彼女も理解していた。しかしそれを知っているからと言って、この少女には出来る事はなさそうだった。
 レッドはミナモから、その携帯端末を徴収していた。ソウタへの連絡のために、彼女の端末を用いようとしたのである。電理研職員を含めて一般的に示されている公的な部長代理宛のアドレスでは、ソウタに直通しない可能性がある。ならば妹の知るアドレスに対し電通を行えば、その兄は絶対に受信するだろうと踏んだのだった。
 更に、ペーパーインターフェイスを踏み台として介せば、電脳同士を直接接続させるような事態にはならない。レッド自身の情報を極力ソウタに渡すような事は避けたかった。だからミナモの端末を取り上げた上で、その端末を用いて電通を行ったのだ。
 そしてレッドはこの端末を、例によって乱暴に取り上げるような事はしなかった。しかし彼からそれを求められたミナモには抵抗の意志は浮かばなかった。
 その直前に、彼女の目の前で久島の義体が酷い目に遭わされていた事が大きい。しかしそれは少女にとって、自らにその暴力が降りかかる恐怖ではなく、自分が断ったらまた「AIさん」が「酷い事」をされるかもしれないと言うある種の気遣いから来る従順だった。
 ミナモには自覚はないが、彼女にとってAIは充分に「人質」足り得ている。それは他の人質がこの義体に対して捉えている概念とは、決定的に異なった部分での「人質」としての要素だった。
「――お嬢さん。悪いがこの端末、もう少し借りていていいかな?」
「…はい。構いません」
 電通が終わりレッドがそう持ちかけてきても、ミナモは頷くばかりだった。ミナモは覆面の男にちらりと視線を向けた後に、すぐに隣に戻す。
 ミナモは傍に居る車椅子の久島の義体の元に座り込んでいる。まるで体調を崩していて休むように、瞼を伏せて首を傾けて沈黙している彼の顔を覗き込んでいた。
 義体の顔は蒼ざめたままで、口許からは浅い呼吸が続いている。少女はその顔にハンカチを当て、未だに有機体としての人工皮膚から沁み出し流れてくる汗を吸い取っていた。彼女の心配そうに曇った表情は変わらない。
 そんなミナモの様子を前にして、レッドは両手を上げた。肩を竦める。余裕の賜物か、軽口めいた言葉が出てきた。
「安心してくれ。君の兄さんとの電通以外には使っていないし、これからも相手からの受信目的にしか使わない。君の秘密には触れないよ」
「そんな事、気にしてませんよ」
 ミナモは彼の方を見ずにそれだけ答えていた。それは彼女の本心である。
 いつもの彼女ならば、その指摘を受けたなら思春期の少女らしく恥ずかしさに顔を紅く染めて取り返そうとするかもしれない。が、この痛め付けられた久島を目の前にしてはそんな反発心自体が湧き上がって来ない。只ミナモは、冷汗に似た液体を分泌し続けている久島の義体を心配そうに覗き込んでいた。
 そんな彼女を見下ろしていたレッドは、ある意味満足げに頷いていた。いくら無力な少女とは言え、抵抗の意思を見せずに従順で居てくれるに越した事はなかった。只でさえ面倒な事態に巻き込まれているのだ。彼としては些細な事であったとしても余計な労力は極力使いたくはない。
 そして彼は視線を手元に落とした。ミナモの端末を持つその手を見やる。その画面を見やりつつ、淡々と語った。
「――まあ、仮に女子中学生の日常に興味を持とうにも、ログが見えないんだがね」
「…え?」
 その言葉に、ミナモは顔を上げた。興味を惹かれたらしい。傍に立つレッドを見上げる。黒ずくめの覆面に隠されているレッドと、不可視の直線として視線を合わせた。
「ほら」
 レッドはミナモに、彼が手にしている携帯端末の画面を掲げて見せた。すると、そこにはソウタのアドレスしか表示されていない。
 画面上には他のアドレスも一覧として羅列されているのだが、それらは暗号化されているらしく、意味を成さない文字列にしか見えない。そしてそれらを選択する事すら出来なくなっているようだった。
「殆どのログや機能にロックが掛けられてしまっているよ。君が事前にやってた設定?」
 世間話のように、レッドはあくまでも穏やかに問い掛けてきていた。それは彼にとっては全く装う所がない心境である。
 私人としての彼に下世話な好奇心が全く生じないかと問われれば、嘘である。しかし人質とは言え、相手との信頼関係を極力築く事は重要であると、彼はこのあまり褒められるようなものではない業界で依頼をこなしてきた過程で身をもって学んでいる。その関係にひびを入れかねない行為は慎むよう、肝に銘じていた。
 或いは、ミナモのペーパーインターフェイスなど、所詮は女子中学生の私物である。彼が奪取する目標ではなく、またその情報価値も限りなく低い。だから無理に情報を抜く必然性は感じられなかった。だから彼は、従順な少女を前にこんな口の利き方をするのである。
「…え、私は全然知らないです」
 ミナモは口許に右手を当てた。考え込むような仕草を見せ、そんな風に答えていた。
 彼女もまた嘘はついてはおらず、そしてレッド自身もこの少女がそんな器用に嘘を繰り出してくる人間とは思っていなかった。奇妙な信頼関係が彼らの前には構築されている。
「そうか。もしかしたら、君の知り合いの波留真理が仕込んでおいたかな。確かに少女のプライバシーとは、何物にも変え難いものだからね。気を遣ってくれていたのかもしれないな」
 述懐するようなレッドの台詞に、ミナモは首を軽く傾げた。大きな瞳に不思議そうな色が浮かぶ。彼女はそのまま、怪訝そうな声で質問を発していた。
「――…波留さんの事、御存知なんですか?」
 先程のソウタとの電通で、レッドは確かに波留の名を出していた。そして波留をこの場に呼び出そうとしている。
 しかしそれは、久島の義体が波留を指名したからに過ぎない。彼らが目的を達するためには波留の力を借りて、久島の義体から脳核を抜き取る他ない。だからその名がソウタとの交渉の中で出てきたのだ――ミナモは今までそんな風に現状を把握していた。
 だが、今のこの場での会話から類推するに、波留はミナモの知り合いであると、このレッドは知っている。それはミナモの前に明らかにされていた。単に久島の記憶を引き継いだAIから強引に引き出した名前と言う訳ではなさそうだった。
 ミナモの問い掛けに、レッドは軽く身じろぎをした。僅かに首を傾ける。彼女の言葉を精査するような素振りを見せる。しかしすぐに肩を竦め、気楽そうな態度を取った。
「面識はないがね。化け物メタルダイバーとは訊いている。用心しなきゃ、こっちがやられるとね」
 そこで彼は一旦言葉を切る。顔の向きを僅かに変えた。ミナモも釣られて彼の向いた方に顔を向ける。そこには車椅子に腰掛けている久島の姿があった。
 その久島を右手で軽く指し示しながら、レッドは言う。その台詞は相変わらず軽々しいものだったが、そこには徐々に凄みのような成分も含まれてきていた。
「――メタルの神様を擁する電理研のお膝元である、この人工島のメタルにて一線張ってるお人だからな。お相手するに当たっては、我々も相当の覚悟は持つべきだと認識している」
 ――この人。波留さんにも、酷い事をするつもりだ。
 ミナモはその台詞から厭な響きを敏感に嗅ぎ取り、そう直感した。この2時間も経過していない状況において、この場で行われた行為を彼女は鮮明に思い起こす。それが今度は、自分にとっての大切な人に向けられるとすれば?
 こんな所に来ちゃ駄目だ、波留さん。
 そんな言葉をミナモは心の中で連呼する。しかし未電脳化者である彼女は、思考をそのまま電通として誰かに飛ばす事は出来ない。
 だからミナモは、傍にある久島のその手を取った。縋るように握り締める。義体のその手は、やはり冷汗に濡れていて体温も下がっていた。そしてミナモに握られても、指が全く動こうとはしなかった。
 顔を歪めてミナモは久島の顔を見やった。彼は蒼ざめた表情のまま、目を伏せて休んでいる。まるで人間のような状態だが、彼女はこの様子に余程酷い目に遭ったんだと思う。
 色を失った顔のせいか、眼窩が落ち窪んで見えるその横顔を眺めていると、ミナモはふと思い出した事があった。
 ――AIさん…私に端末を出せって、あんなにせがんだよね?
 彼はあの時一体、何をしたのだろう。――何かをしたのだろうか。
 それを確認しようにも、その直後にメタルへの接続が落とされて、あの人達が押しかけてきたのだ。それどころじゃなくなったので、私はすっかり忘れていたけど――。
 ミナモはそれを思い出してゆく。すると、もしかしたら端末をロックしたのは波留ではなく、このAIなのではないかと言う疑問が沸いて来ていた。
 久島の義体の手を握り締める手に、ミナモは軽く力を込めた。何らかの反応を返して欲しいと願う。
 まさか、声に出して問い掛ける訳にもいかなかった。もし本当にこのAIが端末に対して何かをしたのならば――何かをしたという疑惑を抱かれてしまえば、彼はまた「酷い事」をされてしまう。その危惧がミナモの心を竦ませていたからだ。
 ミナモの思いを知ってか知らずか、久島の義体は眼を閉じたまま沈黙を続けていた。
 
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