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その時、微かに喘ぐような呼吸めいたものを漏らしていた久島の口許から、小さな声が発せられていた。 「――…止めろ」 電脳と全身の双方が完全な麻痺に至りつつある義体では、口も上手く回らない。しかしそれは単純な英語であったため、掠れた声でも周辺の人間達には聞き取る事が出来ていた。 「…何だ?今更命乞いでもするつもりか?」 レッドの声には意外そうな響きがあった。自らの「死」を受容していたと思われたこのAIが、土壇場でそんな言葉を漏らしたのだ。死に瀕した人間のような行動を取る――そう感じたのだ。 特に彼ら犯罪に手を染める人間は、他を生業とする者よりも確実に死に近しい。その彼らの実体験に、今回のこの久島の記憶を受け継いでいるだけの存在であるはずのAIを、当て嵌めてしまう。 「まさか…私は…機械だ…生命体ではないのだぞ…」 死を目前にした人間のように身体を小刻みに痙攣させつつ、義体はそんな事を言っていた。その目許を覆っているレッドは自らの掌に水分を感じている。それはおそらく涙なのだろうが、あくまでもこの緊急事態に瀕し、義眼の眼球を保護するために分泌されているに過ぎないはずだった。 台詞から読み取れるように、自分はAIであるという不文律を冒すまでに電脳が停止させられていないなら、思考はどうにか鮮明であるようだった。それなのにこのような発言をするとは、矛盾ではないだろうか――有り体に言うならば、レッドはそこに興味を惹かれていた。 その一瞬後、機械が機能停止するような緩慢な音がその場に響いた。がくんと久島の義体が揺れ、力が抜ける。肘掛けから両手が滑り落ち、車椅子の車輪に沿うように腕が流れた。背後から肩を掴み首筋のデバイスを手で覆っていた覆面の部下が、身体を引いた。 直後、不意にレッドの手が繰り出される。久島の顔を掴んだ状態のその右手が、勢い良く上がった。その手で支えるように義体の上体を持ち上げ、車椅子の背もたれに彼を叩き付けていた。 久島は背中の全面と、デバイスを装着した首筋を打ち付ける。目許は覆われたままだが、露わになっているその下の口許が歪んだ。咳き込むような仕草を見せ、元々そこから垂れていた唾液状の分泌液が吐き出される。 「――AIの分際で生意気にも遺言でもあるなら、訊いてやるから早く言い残せ」 レッドは掴む手の角度を変え、久島の首を傾けさせて背もたれに後頭部を押し付けている。そこに、冷酷な語調で言葉を浴びせかけていた。 「所詮お前は久島部長ではないのだから、これ以上手間を取らせるな。この場の人質のためにここまで気を遣ってやったが、我々の気の長さにも限度がある事を知れ」 その台詞の内容の通り、彼の言葉には苛立たしさが含まれてきている。それは本気なのかそれとも装っているのかは、覆面に顔が覆われているために外部からは判らない。しかし前者である事を主張するかのように、久島の顔を覆うその手に力が込められてゆく。痛覚を保持している顔面の皮膚に爪が食い込むのを感じ、久島はますます口許を歪めていた。 危うく電脳を完全に麻痺させられそうになる時点で、久島の首筋に装着されたデバイスへのモード変更の指示が至っていた。久島の義体は際どい所で機能停止を免れた事になる。 しかし介入してきたプログラムは確実に彼の身体を冒しており、全く四肢を動かせない状態に陥っていた。いずれは回復するだろうが、それが果たして何分後か、何時間後か。攻撃を受け続けた現状の彼の電脳では、その計算すら覚束無い。 更には視覚は物理的に義眼部位を塞がれた事により、全く用を成さない。暗闇の中、彼は痛覚が伝わる電脳を感じつつ、浅い呼吸を続けていた。その最中、掠れた声で彼は主張を訴える。 「…君達が本当にプロならば、無駄足は踏みたくなかろう。その忠告はしておこうと思っただけだ」 「忠告?」 ある種の押し付けがましいその単語を捕まえる。レッドは問い返しつつも語尾を上げていた。義体の顔を掴む右手に力を込める。 義体は四肢が麻痺し脱力状態に陥っている。車椅子に腰掛けているものの、前に倒れ込みそうな体勢だった。それを顔を掴まれて支えられつつ、彼は言葉を続けてゆく。その言葉は徐々に発音がしっかりとしたものとなる。大きな声は出せないものの、舌が回るようになってきたらしい。 「人間の世界に、そんなに上手い話はない。ブレインダウンに陥った後の処置として私のような存在を遺した久島永一朗が、これに満足してその先に何も対策を取っていないと信じているとすれば、君は存外愚かだ」 「どういう意味だ?」 回りくどい義体の言葉に、レッドはやはり問う。脳に攻撃を受けて蒼ざめた顔を見やった。人間のように紅い血が通う身体ではないのに顔色の再現は行えるのかと、そこに彼はある種の馬鹿馬鹿しさを感じた。 人間からの問いに、義体は一旦沈黙した。口を結ぶ。目許が覆われているためにその表情は明らかではないが、感情を持たないAIなのだから、せいぜい攻撃に対する痛みに耐える顔をしているのだろうと対している人間は思う。 そして義体は、結んだ口を開く。苦しんだ挙句の唾液に塗れ、血の気を失った蒼い唇が、しっかりとした言葉を紡ぎ出していた。 「私には、最終手段として、自殺用の脳死プログラムが備わっている」 「――!」 それには流石にレッドも息を飲む。軽く仰け反った。思わず、義体の顔を掴む手が強張っていた。 その義体の言葉を聴きつけたのは、レッドばかりではない。彼の背後に居たデバイスを操作した部下や、ミナモを引き剥がしていたもうひとりの部下にも伝わっていた。そして、引き剥がされようとしていた、ミナモに対しても同様である。 そんな聴衆達の表情を、視覚を奪われている久島は知る由もない。彼は淡々と自らの設定を口端に乗せていた。 「それは私の意志でも発動出来るし、この脳核が義体から外され私が無効化された時点で自動的に発動する設定にもなっている。君が下手を打てば、そのプログラムが発動して私の電脳ごと久島永一朗の生脳を初期化した上で、高圧電流で焼く。全ての処理に、30秒と掛からない。そうなれば、彼の知識は今度こそ無に帰す事になるな」 久島の説明はそこで一旦途切れていた。沈黙する。 それに、レッドは軽く息を吸い込んでいた。内心の動揺を制御する。彼の手の先にある、痛め付けられた状態の義体を眺めた。 大幅に状況が変わった事を、彼は認めざるを得なかった。 何せそんなプログラムが存在するならば、今使用したデバイスがこのAIの電脳を落とした時点で発動した可能性もあるのである。そして義体から脳核を外した時点で確実に発動するならば、彼らはどうやって目的を達成すればいいのか。 ――このAIを、この場の人質を利用して義体に収めたまま連行し、強制的に協力させて記憶を抜く?それはリスクが大き過ぎる。そんな大所帯になっては足が着く。 いくら死亡状態にある脳から記憶を抜く事が出来ると言っても、それは全てではない。そして脳が記憶媒体である以上、初期化が確実に行われては、復元も難しい。 そしてそのふたつの手段を合わせて用いる事が、情報を確実に消し去る手段と成り得た。ソフトウェアを消去した上で、それを保存していたハードウェアを物理的に破壊するのである。その復元は現在の技術水準においても困難を極める事となるだろう――ましてや、そこに収められているものは、人類の宝と言うべき知識である。そこから何かを取りこぼしては価値が大幅に下落する事になる。 だから、彼は別の方法を模索する他なかった。そしてそれこそが、確実な手段となり得るはずだった。 |