拙い指の運びながらその譜面を着実に浚っていたミナモが、その曲の終わりに差し掛かった頃だった。
「――蒼井ミナモ」
 少女は不意に自らの名を呼ばれていた。その声に、彼女は思わず指の動きを止める。リコーダーから口を離した。呼ぶ声がする方を見やる。
 すると、ミナモの傍らで車椅子に座っている久島の義体が、彼女に視線を注いでいた。彼は今まで、窓の向こうに視線を送っていたはずだが、何時の間にかにその視線の向きを変化させていたらしい。
 その視線を受け止めたミナモは、はにかみ笑う。確かに久島の義体は他者に対しては存在を隠蔽されているが、逆にその存在を知るミナモ相手にはこの病室内において意思表示を見せる事がある。それは検査の時間が迫っているとか、或いは窓の外に見える存在についてとか――ある種の他愛もない会話を持ちかけてくる事が大半だった。
 だからミナモは、今回もそう言う事なのだろうと判断していた。リコーダーを胸の前に下ろし、義体に笑いかける。そこに義体は淡々とした口調で言葉を発した。
「君の携帯端末を出せ」
「――…え?」
 いきなりの申し出に、ミナモの笑顔が凍り付く。そして表情に戸惑いが垣間見えた。久島の顔をじっと見た後に、視線を傍らに逸らす。そこにあるサイドテーブルの上に、義体が求めるペーパーインターフェイスは置かれていた。
「早くそれを、私に差し出すんだ」
 ミナモの視界から義体の存在が僅かに外れたその時、強い口調が飛んできた。それは苛立たしいとも急かしているとも解釈出来るような語調であり、感情に乏しいはずのこの義体にしては珍しい事態だとミナモは思った。
 ともかくそんな口調を繰り出されては、ミナモとしても反射的に対応してしまう。慌てて席を蹴る。椅子の足が音を立てて床をずれるが、倒れるような事にはならない。
 少女はそんな椅子を気にする余裕もなく、サイドテーブルに身体ごと突っ込むように手を伸ばしていた。リコーダーを左手に持ったまま、伸ばした右手がサイドテーブルの上を浚う。狙い定めた手は外れる事無く、ピンクのペーパーインターフェイスを掴んでいた。
 繰り出された手の勢いのまま、ミナモはそれを胸元まで持っていく。この携帯端末は、未電脳化者である彼女に様々な連絡を行うには必要不可欠なアイテムである。
 現在は昼休み中だがそれが明ければすぐに検査が始まる。彼女は久島の介助担当者兼久島の姉の名代として、病棟スタッフ達に何時呼び出しを受けてもいいような体制を取っていた。電通やメールの着信にすぐ気付くように、鞄の外に携帯端末を出していたのはそう言う事情に拠る行為である。
 ミナモは要求されたままに、その端末を手に久島の元に向かう。彼女が久島の方に踵を返した頃には、義体の震える右手が肘掛けから上げられていた。彼はその肘を曲げて手を胸の前に持ってきており、かじかむように強張った指を広げている。身体を殆ど動作出来ないAIとしての彼が懸命に制御した結果が、そこにある。
 準備されたその手に向かい、ミナモは自らの端末を差し伸べた。開かれた掌に対し、端末をかざす。途端に微かな電子音が響き、端末の画面が淡い光を帯びる。元々電通やメールを受けるために待ち受け画面に設定されていた端末の画面に、何らかのメッセージが表示されて行った。
 メタルに疎いミナモだったが、どうやら久島はこの携帯端末と何らかの情報のやり取りをしている様子だと把握する。その光を顔に当てつつ黙って見守っていた。
 少女の待ち時間は然程長くはない。十数秒で端末に対する久島からのアクセスは終了していた。
 その途端、彼の右手から力が抜ける。用件が終わったと言わんばかりにその手が放り出され、膝の上に落ちた。力ない右手が膝の上をずり下がる。
 待ち受け画面に戻った端末をミナモは一瞥する。そして端末を胸元に引いた。久島の右手を肘掛けに戻すべく、彼の車椅子の前に屈み込む。それもまた彼女にとっては日常であり、特に疑問を抱いていない。
 右手を落とした久島は俯き加減に膝の上を見やっていた。彼の右腕を優しく掴み持ち上げる少女の手元とその顔を視界に入れる。
「――蒼井ミナモ。君は…」
 その義体は何かを言い掛けていた。しかしそれは続かない。言葉を中断したまま沈黙していた。
「…何ですか?AIさん」
 その態度に、ミナモは顔を上げた。手元の作業をつつがなく行いつつも微笑んで義体を見上げる。
 少女の笑顔を義体は無表情に受け止めていた。彼は軽く眉を寄せているが、それは普段から良く見せる表情である。少なくともミナモはそう捉えていた。
 そんな彼女を見据えたまま、義体は口を開いた。表情の印象のままの口調がそこから発せられる。
「…これから何が起こるにせよ、君は落ち着きを保て」
「え?」
 その台詞には、ミナモは短い声を上げていた。口を小さく開いたまま、義体の顔に視線を送る。
 彼の表情は、相変わらず厳しい印象を纏わり付かせたままである。その口許から更に台詞が継がれてゆく。
「いざとなったら私の存在は、この義体ごと見捨てろ。君は自分の身を守る事に専念すべきだ。そうしなければ波留真理や久島永一朗が哀しむ結果となり、私としてはそれは本意ではない」
 久島の口から続いた台詞に、ミナモは首を傾げた。この義体はたまに、少女にとっては良く判らない難しい話をする事がある。その際と同様の疑問が彼女の心に沸いてきていた。
 ――AIさんは一体何を言いたいのだろう?
 ミナモはそんな事を思うが、どうも先程から様子がおかしいとも感じる。普段からぶっきらぼうな物言いをする「人」ではあるが、それにしても――。
 その時だった。
 突然、何らかの大きな音がした。それは遠くから響いてくるような低音だったが、耳を塞ぐ必要があるような音量でもなかった。そしてそれはすぐに途切れる。
 しかしミナモは確実にその音を聞き取る。反射的に音が聴こえて来たとおぼしき方向を振り向いていた。それは、廊下からこの病室に入るためのたったひとつの扉の向こうだった。
 その音がした瞬間とほぼ同時に、唐突に病室の窓が淡い光を発した。僅かにスパークを纏わり付かせ、次いでその電光と光が消滅する。何かが途切れるような短い電子音を立て、窓の向こうに外の風景が戻った。
「――何!?」
 電光の光を顔に感じ、ミナモは短い声を上げていた。振り向いた勢いに、自らの髪が顔や首筋に当たる。
 その異変はすぐに復旧したように思えたが、この少女には似たような現象を以前体験しているような覚えがあった。その記憶は鮮明であり、彼女はすぐにそこに至る。それ程過去の記憶ではなく、更には彼女にとって印象深い思い出であったからだ。
 それは、4月のアイランドでの光景に似ている。ミナモはその想いに行き着いていた。ふと手元の携帯端末を覗き込むと、その表面はピンク色の本体のままと成り果てていた。待ち受け画面すらも消失していたのである。
 その事実を彼女は確認する。こうなると、いくらメタルに疎い未電脳化者であっても、その結論に至らざるを得ない。
 ――メタルが落ちてる?この人工島で?
 何故そのような状況に陥っているのか。彼女の思考は疑問符だらけではあるが、どうやらそれが今の現実であるらしい。ミナモはそう判断した。
 不意に傍らにて、物音がする。思惟が一段落した今、彼女はその微かな音にようやく気付いていた。そしてその音を発しているのは車椅子の人物だった。
 その車椅子に収まっている久島の義体は、力なく項垂れていた。
 その状況自体は、この病室以外では当たり前に見る光景である。ミナモ以外の人間の前では意識喪失状態を装わなければならないため、室外では彼は義体としての動作を停止している。眠っているような姿を他者に晒していた。
 しかし、今の彼の状態はその普段の光景とは微妙に異なっていた。彼は無表情のままに、その目を見開き沈黙している。そして肘掛けに置かれたままの両腕は強張り震えていた。
 それは、腕の一番先端に位置する両手に顕著に現れている。力が込められたように開かれた指が小刻みに痙攣し、時折不規則に指が動いていた。その指先の爪が肘掛けに立てられ、そこに張られた皮を引っ掻く。不快な音が微かに響いていた。
「――AIさん!」
 最も重要視すべき異変を悟ったミナモは、自身が付けたその名を呼称した。慌てて少女はサイドテーブルにリコーダーを置き、久島の義体に駆け寄る。肘掛けに指が当たって音を立てているその両手を、手首を掴んで持ち上げた。
 ミナモは優しくその両手の上に自らの掌を被せる。自らは心配そうな表情を浮かべつつも、その義体を安心させるかのように、掌で彼の両手を包み込んだ。しかし義体の両手は強張ったままである。彼女の手にも小刻みな震えは伝わって来る。
「大丈夫ですか!?何処か具合が悪くなったんですか!?」
 病室の窓とは違い、義体の異変は解消される気配が見られない。焦った気持ちを隠さずミナモは、項垂れたままの彼の顔を覗き込む。見開かれた瞳は相変わらず自らの膝の上を見たままで、呼び掛ける少女にその焦点を合わせては来ない。
「――…メタルへの接続が遮断され、電圧が落ちた…義体の制御が不随意状態に陥っている…それだけだ。問題ない」
 小さな声がミナモの声に届く。表情を浮かべていない顔で、唇が静かに動いていた。しかし、言われた側は一体この何処が問題がないのだと思う。こんなにも震えていると言うのに――。
 と、その様子に、ミナモは別の記憶を刺激されていた。似たような光景に遭遇した事が彼女にはある。その記憶に行き着いた。
 はっと気付いたように、顔を上げる。力なく項垂れた状態の義体の首筋を見た。
 そこには、何かを模った紋様が明滅していた。
 ミナモには思い当たらなかったが、その紋様は霞草をモチーフとしたものである。そしてそのモチーフはアンドロイドや全身義体の使用者が各自選べる事になっていた。
 それはうなじ部分の皮下に備え付けている電脳への接続器官であり、通常はその存在を感じさせないように設定されている。義体の使用者がその器官の使用意志を見せた際には、発光して位置を示す。
 或いは、義体に何らかの障害が発生した際に発光する。その際には異変を示すように明滅するようになっており、現在の状況は正しくそれだった。
 義体の震える両手を、ミナモは左手のみで纏めて支えた。そして右手を上げ、まるで傷口の様子でも確認するかのように、その明滅する紋様に人差し指で触れた。人工皮膚の感触は普段と変化していないようだったが、そこに現れた紋様のゆっくりとした明滅は停止しない。
 そこに、背後で大きな物音がした。がちゃりとノブが捻られた音であり、続いて何人かの靴音がやってくる。
 ミナモはそれに弾かれたように反応する。背後の扉に対し、振り向いた。
 その扉にはセキュリティが備わっており、手順を踏まなければロックは解除されないはずである。そしてプライバシーを重んじる人々が病棟スタッフである以上、この部屋を行き来するミナモ以外の人間が無断でそれを解除する訳がなかった。
 しかし、現実にはこの病室に、ふたりの人間が乱入してきている。彼らはそれぞれに普通のシャツやジーンズに身を包んでいるが、異様な事にその顔は黒い覆面で隠されていた。そして彼らの首には巻きつけ挟み込むようなデバイスが装着されている。
 
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