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その頃にはミナモもメディカルセンターに到着しており、自らの役目を果たそうとしていた。 しかし彼女が訪れているのは、兄や信頼する人々が来ている本棟ではない。「電理研付属メディカルセンター」を構成するいくつもの棟の中でも、その敷地内では若干の距離を取られた場所に建築されているこじんまりとした病棟に入っていた。 その病棟は、隔離病棟として使用されているものである。しかしその本来の目的で使用された事例は、人工島入植20年の歴史のうちには存在していなかった。 人工島とは四方を遠洋に囲まれた人工建築物である。その海自体が様々な存在に対する防壁の役目を果たしており、病原体にとっても同様だった。しかし現在のグローバルな世の中では人間の行き来がその防壁を日常的に破っている。その対策として、人工島の国際ターミナルや空港などの外部に開かれた施設において行われる検疫は、世界的にも最高レベルのものとなっていた。 それすら破られた際の万が一の事態のために、公的に設置されたのがこの隔離病棟である。そして幸か不幸か、建築以来人工島にそう言う事態が訪れた事はない。 しかし洋上の人工島では、限られた面積しか保持出来ない。この20年間、居住する人々は海底方面に増築を繰り返していたが、それは水圧との戦いでもある。減圧装置や特殊素材の壁面を投入するにしても人間が定住出来る深度には限界点が確実に存在し、それを突破する事は人間が人間である以上不可能だった。 島全体がそんな状況なのだから、「楽園」たる地上区画に無為な建築物など存在してはならない。結果的に、隔離病棟はその本来の役割に使用されるのを待つばかりではなくなっていた。 現在では、様々な要因から一般患者と同様に扱う訳にはいかない立場の人物を受け容れる施設となっている。その大半を占めるのは、人工島における重要人物であった。 今回、ここに滞在しているのも、その例に漏れない。患者はたった1名であり、その世話に当たるスタッフも数えるばかりとなっていた。その他の病棟とのやり取りも必要最低限とされており、この隔離病棟のみで全てが完結するようになっていた。本来の「患者の隔離」としての役割を鑑みれば、当然の話ではある。 そんな状況下、ミナモは1階に設置されている病室に収まっている。無論、彼女自身が患者と言う訳ではない。 人工島中学校の制服姿のミナモが椅子に座ってリコーダーと戯れているその隣では、車椅子に収まった壮年の人物が居る。彼はミナモが奏でる拙いリコーダーの音色が静かな室内に響き渡るのを、沈黙して見守っていた。黙っているにしても眠っている訳でもなく、瞳を窓の向こうの青空に向けている。 彼の顔を知らない人間など、人工島島民には存在しないだろう。その範囲を世界に広げても、相当数の人間が知っているはずだった。しかし今のように病院服に身を包んだ姿を見た者は、ごく限られた人間達である。 彼こそが先程ミナモと電通していた久島のぶ代の実弟であり、電理研統括部長の職に就いている久島永一朗だった。 現在の彼は7月中のテロに倒れ、ブレインダウン症例に陥っている。彼の自意識はメタルに完全に溶け、そのメタルが7月末に完全に初期化された今、彼の意識の回復は絶望視されていた。しかし僅かな可能性に賭け、今この病棟でその治療が行われている。 そのプロジェクトは一般には極秘であり、だからこそ、この隔離病棟を用いられているのである。彼の存在は一般から隔絶され、彼が今見ている窓もメタルを介した設定により遮光されていた。室内からは通常のガラス窓のように外の風景を見る事は出来ても、逆方向からこの窓を見ても一面がスモークグラスとなっているのである。外部からこの室内の様子を窺い知る事は不可能な設定とされていた。 そんな中、現在の彼はその目を開いている。全く身じろぎはしないものの、彼の義体は確実に起動していた。この事実を知る者は、この病棟内においては蒼井ミナモ只独りである。 しかしその義体に在るのは、「久島永一朗」としての意識ではない。統括部長としての彼の知識と記憶を受け継いだAIが起動しているだけに過ぎない。そして「彼」の存在を知る者は、人工島において本当に数える程しか存在しない。 彼の存在を隣にしつつ、ミナモは持ち込んだリコーダーを必死に奏でていた。傍らのサイドテーブルには譜面が開かれており、彼女はその音符を視線で追っている。紙形式の譜面には皺が寄っていて新しいと言えるものではない。それでも丁寧には扱われている節が見受けられた。その傍らには肩提げ鞄があり、更には譜面を固定するようにピンク色のペーパーインターフェイスが置かれていた。 ミナモにとってはこの曲は、5月中にコンサートで知った曲である。その際に少しだけ練習したものの、暫く放っていた代物だった。それが10月にそのプロのバイオリニストの手による再演を聴く機会があり、それ以後は音楽の授業のついでに再び練習を始めている。相変わらず滑らかには吹けないものの、彼女にしてみたら相当な進歩を遂げているつもりではあった。 その一方でやはり拙いままである自覚もあるために、誰かにこの練習を聴かれるのは何処か気恥ずかしい。それでも彼女はこの病室での練習を日常の一部としていた。 少女の練習は待ち時間などの合間に行われ、その際には久島の義体が黙ってその演奏を聴いているのが常である。しかしミナモは以前に、彼が起動停止しようかと申し出てきても、それを断っていた。気恥ずかしさはあるものの、何処かに誰かに聴いていて欲しい気持ちもあるのだ。その矛盾は何故生じているのか、彼女自身にも良く判っていない。 現在の昼下がり、ミナモは父親達に弁当を差し入れてきている。 あの水上バスから目的地に到着した彼女は、そのまま真っ直ぐにセキュリティを通過してメディカルセンターの敷地内を突っ切って隔離病棟入りしていた。そして既に訪れている病棟スタッフ達に手持ちの弁当類を手渡していた。 それは前もって申し送っていたものであり、彼らの昼食となっている。彼らの一員であり電理研から出向して来ている蒼井衛の娘から弁当を差し入れられるのは、これが初めてではない。だから彼らは笑顔でそれを受け容れていた。 今回は、更にそこに千枚漬けが追加されている。それは日本の友人から送って貰ったものだとミナモに訊き、日本本場の食物に彼らは舌鼓を打っていた。やはり日本人や日本をルーツとする島民にとっては、日本食は特別な存在らしい。そんな風に自分が差し入れた弁当を楽しんでくれる様に、ミナモは喜びを感じていた。 それからミナモは久島の病室に向かう。昼休みが終了次第、彼の治療と検査が始まる事になっていた。その検査に向かうための準備として、彼を車椅子に移したりする作業を行う。その間に「久島」は起動し、彼女と幾許かの会話を交わす。それは彼の存在を知る者がミナモのみであるこのメディカルセンターにおいては、監視カメラの類が備わっていないこの病室でのみ行えるやり取りだった。 彼女自身の昼食は弁当を作る過程で摂っていたために、その後はリコーダーの練習に空き時間を費やしていた。その傍らでAIとして意識を回復している久島が、黙ってその演奏を聴いている。 それはこの病室において、ミナモにとっては有り触れた情景である。そして昼休みが明ければ久島を室外に連れて行き検査をこなし、久島の意識が復帰する糸口をどうにか掴もうとする人々を見守る事となる。それが彼女にとって、電理研統括部長代理である兄を介して久島のぶ代から頼まれている「名代」としての役割だった。 ――自らの父や医療スタッフ達に――或いは兄に、あの流星群の一夜の奇跡を伝えたならば、それは治療の助けになるのだろうか。或いはこのAIが起動している事実をスタッフ達も知ったならば、彼らは治療の一環としてその起動のプロセスが解明しようとするのだろうか。 この情景に浸る度にそんな事をミナモは思わないでもないが、彼女はそれを実行しようとはしていなかった。そしてそれはこれからも変わらないような気がしていた。 それは何故なのか。やはりそれは、彼女自身にも判らなかった。自分の事だと言うのに判らない現実を、今のミナモはいくつも抱えていた。 |