電理研付属メディカルセンターとは、人工島住民にとって馴染み深い医療機関である。島民の大多数が通過儀礼とする電脳化施術を始めとして、様々な疾病の治療や何らかの検査業務を幅広く実行している施設だった。
 そのためにメディカルセンターは、いくつかの病棟によって構成されている。それぞれの病棟には専門の役割を保持しており、利用者もその区分によって振り分けられていた。
 病棟群の中でも正面玄関から入ってすぐに位置する、一際大きな建築物がある。その壁面上部にはメディカルセンターとしての看板が掲げられている事から判るように、この病棟がメディカルセンター本棟だった。
 ここは総合的な医療や検査などを扱う病棟であり、利用する人間も他の病棟よりも多い。それでも今は土曜の昼休み時間帯と言う事もあり、来訪者の数は少なくなってはいる。地球上における大抵の国家の医療機関の御多分に漏れず、土曜の一般外来受付は午前中までと設定されているからである。それでも午後になれば、今度は事前予約の検査などを受けるべく、平日には劣るものの結構な来訪者が現れるはずだった。
 しかし今は昼休みの時間帯である。現在この病棟を訪れているのは、午前中から検査などを跨いでしまっている患者か、午後から受付して貰う予定となっているが少々気が早くやって来た人間程度だった。
 その時間帯に本棟ロビーに立っていた波留真理は、後者に当て嵌まる立場である。
 彼は広々としたロビーに設置されている5角形をあしらった大きなソファーに腰を下ろす事もなく、その脚で立ってロビーの中央に存在する円筒状の水槽を眺めていた。それは本棟に水が張られている水槽であり、その内部にはこれまたリアルの魚がかなりの数、放流されていた。蒼く透明な水の柱に、色とりどりの魚が各々魚群を形成して漂っている。その蒼に、彼の纏められた長い黒髪と、着慣れた青色の長袖シャツとインディゴブルーのジーンズが映る。
 その水槽は、人工島公的施設内における設備らしく、メタルを経由してのディスプレイとしても使用出来る。しかし現在は昼休みであり、何らかのデータを投影するような事態には至っていない。ロビーの片隅にはきちんとしたディスプレイも置かれており、そこには現在ニュースメディア放送が映し出されていた。
 ロビーの一角には装飾的に大理石の板が何枚か立てられており、その合間を水が流れている。水と緑を感じさせる造りになっているのは人工島の建築物の鉄則であり、このロビーも公的施設としてその鉄則に従っていた。
 そこから漂う微細な水分子の冷たさを、波留は顔に感じている。彼はこのメディカルセンターをこれまでにも利用した経験はあった。人工島に居を置いて半年以上経過している身分なのだから、どんなに健康な人間であっても当然と言える話だった。
 しかし、今日は彼自身の用件として、このロビーを訪れている訳ではない。
 波留がここを個人的に利用する際の用件とは、様々な検査だった。8月に海の深層から帰還する以前には老人の肉体を保有していたのだから、その管理に気を遣った時期が確実に存在している。そしてそれ以後は「水の力」に拠る奇跡で青年の肉体に若返っており、健康的な肉体を手に入れた以上メディカルセンターからは足が遠ざかっていた。
 どちらにせよ、彼は病気治療のためにメディカルセンターを訪れた経験は、イレギュラーな場合を除き殆どない。検査を主体とした利用であり、その際には待ち時間が長い検査も含まれる事が多かった。
 そうなると、通りすがりの人々を眺めて無為に時間を潰してゆく。このようなセンターを訪れるだけあって深刻そうな顔をしている人が勿論多数派ではあるが、波留のように単にメディカルチェックとしてこのロビーに来ている人間は面倒臭そうな表情を浮かべているものだった。
 しかし現在は昼休み時間帯と言う事もあり、外来患者やその他の利用者の姿はこのロビーには見えない。時折昼休みを過ごしている病棟職員が壁際に沿って歩いて行く程度だった。
 ニュース放送も特に変わり映えはしていない。先日の流星群は学術とエンターテイメント双方においてかなりのニュースソースを提供してはいたが、10日も過ぎ去ればそれも落ち着いてしまっていた。
 それ以前、7月中にはこの人工島は激動の時代を通過しているのだが、それすら最早沈静化してしまっている。そこには、電理研統括部長がテロに倒れ、加療しているものの回復の見込みはない現実が確実に横たわっていた。それでも、少なくない人々の間に何処か釈然としない部分を残しつつ、人工島はその事件を20年の歴史の一部として組み込みつつあった。それが世の中の流れである。
 波留は自らの電脳の片隅に、現在の時刻を掲示する。その時刻を確認し、彼の用件にはまだ時間がある事を確認する。彼は昼休みの時間帯とほぼ同じ時間を待つ必要があった。その時刻に至るには、もう少し時間を要する事になる。
 手持ち無沙汰な彼は、電脳を展開してゆく。メールの受信フォルダを開き、そこに届いているメールのタイトル一覧を眺めやった。
 受信箱フォルダには分別されていない様々なメールが無造作に放り込まれており、そこにはフィルタリングをすり抜けたダイレクトメールに始まり個人的なやり取りのメール、果てには電理研委託メタルダイバーとしての業務関連メールまでもが存在していた。
 波留は新着順に並んでいるその一覧から、新着マークは点滅していないものの上位に来ているタイトルを選択した。その1通のメールを開き、展開する。
 すると、そのメール画面には文章表示の他に、静止画像が何枚か出現していた。それは、海沿いに建築されているこじんまりとした建物が様々なアングルで撮影された画像だった。一軒家と表現するよりは、何らかの店舗めいた印象を与える建築物である。
 画像群には、その近辺に存在するらしいハーバーと、そこから開ける海の光景も撮影されていた。その風景には古い木造建築物も残っており、海沿いには小型の漁船もいくつか停泊している。小さい島々の影も見えており、人工島の近海とはまた違った印象があった。
 そのメールの送信主のアドレスは、人工島内部ではない。認識コードには日本本国が含まれており、細分化するならばそのコードは日本における九州、更には唐津地方とされていた。
 そのメールの文面と画像とを、波留は黙って眺めていた。リアルにおける彼の表情も変化せず、考え込んでいるような状態だった。
 画像群の中には、イルカらしき流線型の存在が水平線の向こうに跳ねている写真も存在していた。――この唐津近海において、イルカウォッチングはまだ継続出来る環境であり…――その写真に添えられた文章にはそんな一文があり、波留は目を細めた。そこには懐かしむような印象が含まれてはいるが、その一方でやはり何かを思考している印象も多分に含有していた。
 しばしの思惟に浸った後、波留はふっと視線を上げた。電脳に展開されたメールの向こうに垣間見える、リアルの水槽を泳ぐ魚群に焦点を定める。
 ――…今は、この人工島の事だけで、手一杯か。
 波留はそんな想いに至っていた。顎に手を当て、伏し目がちに軽く頷いてみせる。
 彼は人工島と地球の危機を救い海の深層から帰還した以後、一時期故郷の唐津に居を移す事を考えていた。肉体が若返った事で、電脳化水準もその時代に戻され、現在のメタルには対応しなくなっていた。そして50年間抱え込んでいた地球律の謎もとりあえずは解き明かされ、彼の親友であり地球律研究のパートナーでもあった久島の自意識がリアルから去った以上、最早人工島に留まり続ける理由など自分には存在しないと思っていたからである。
 それが、新たな動機付けを見出し、今尚この人工島に居住し続けている。
 自分の能力は、この人工島に必要とされている。7月のあの騒動にて、この人工島を守り通した。これから暫くはそれを続けるのも悪くはないし、遺された人々と共にそれを行うのは、久島に与えられた義務に近いのかもしれない――思い悩んだ挙句に結局波留はそんな結論に至り、電理研委託メタルダイバーに復帰したからである。
 自らの故郷に思いを馳せるのは、後幾年か歳月を積み重ねてからでもいいだろう。ひとまずは愛すべき人々がこの島を運営してゆくに当たって、微力ながらお手伝いをしてゆこう――現在の波留は、そう決意していた。
 
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