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そのミナモの台詞に対し、老女は微かに笑っていた。しかしそれ以上の言葉を発する事はなく、僅かに間が置かれた。 そして老女の声が変化する。相変わらず発音や口調は綺麗な日本語を維持してはいたが、僅かにその声が低められていた。 ――…あなたには、私の我儘で御迷惑をおかけしているわね。この程度でお返し出来るとは思っていないけれど、少しは心を慰めて頂きたいわ。 その台詞を言われたミナモは、きょとんとした表情になり、首を傾げた。何を謝られているのか全く理解が出来なかったのだ。 無言のまま、上目遣いになり思考を巡らせる。直射日光避けのためのバスの屋根が陽光に色をつけてミナモの元に光を届けてくる。それを頭上から浴びつつ、髪に熱を感じた。 そして彼女は、顔に笑顔を取り戻す。大きく頷いていた。その拍子に、長い髪とそこに留められたリボンが揺れる。 「――…久島さんの介助なら、全然気にしてませんよ?だって私も久島さんと一緒に居られて楽しいですもん」 その少女の元気一杯の声に、老女は口を噤んでいた。少女の言葉には全く裏は感じられず、本気でそう思っている様子だったからである。 そしてミナモが「久島さん」と呼ぶ時、この老女を指していない場合も多々あった。その際呼ばれている相手とは、彼女の弟である。今回の「久島さん」についても、文脈から弟の方を指していると理解出来る。 現状において、久島のぶ代と蒼井ミナモの直接的な繋がりは、その依頼によって保持されていた。老女は彼女の弟の治療を人工島に委託しており、様々な要因からなかなか人工島に足を踏み入れない彼女の名代としてミナモを指名しているのである。 そしてミナモは将来の進路として介助士志望だった。その発展途上の技能を生かし、表向きの少女の役割は「久島部長の介助担当」と言う事になっていた。 介助士ともなれば、どんなに絶望的な患者相手であっても明るく接さなければならない。人間が罹患する疾患である以上、気力も治療には関係してくるものだった。不用意に患者の気力を削ぐような言動を取るべきではない。そして、そんな患者当人へは当然の事ではあるが、その身内達にもそんな介助士の態度が慰めになるだろう。 このミナモもきっと今、その技能を発揮しているのだろうと、その患者の姉として判断していた。そのさり気なさは素晴らしく、間違いなく将来とても良い介助士になるのではないか――そんな事を何千キロも向こう側で老女は思っていた。 「――あの」 そこで、ミナモはそれだけ言って口篭ってしまう。それは彼女にとってとても珍しい態度だった。 ――…どうかなさったの? 「…いえ…」 怪訝そうに問う老女に対し、ミナモの態度は歯切れが悪い。少女側では視線が中空を泳いでいる。左手は弁当の包みを撫でているが、それも何処か上の空と言った印象だった。何か別の事を考えているらしい。 電通上では沈黙が続いている。しかし老女はその沈黙を破るような真似はしなかった。あくまでも少女の自発的な行動に任せるつもりだった。 やがて、ミナモは大きくかぶりを振った。何かを振り切るような行動だった。不可視の相手に対し、大きく頷いてみせる。 「――きっと、大丈夫なんです」 少女の口からもたらされたものは、確信を込めた言葉だった。しかし突然耳元に届いたその言葉に、老女は向こう側で首を傾げていた。 ――…え? 老女の思考に発生した戸惑いが、そのまま音声として口から吐き出されている。 そこに間を置かず、ミナモの声が続いて来た。彼女は相変わらず元気で確信めいた口調を用いて言葉を発していた。 「――だって――久島さんは、150歳まで生きるんだから!」 その言葉に、老女は何も言えなかった。口を挟む事が出来なかった。ここでの場合もやはり、「久島さん」とは彼女自身ではなく弟の事を指しているはずだった。 ――確かに、久島永一朗とは姉ののぶ代とは違い、全身義体の人物である。その彼自身の自前の生身は、脳核を残すのみだった。 生身の肉体とは加齢により老いてゆき、どんなに高度な処置を繰り返しても現在の医療レベルにおいてはやがては朽ち果ててゆく運命を変える事は出来ない。しかし寿命を考慮すべきは脳核のみとしているのならば、内臓疾患などからは解放されている事になる。ならば、只の人間よりは長寿を望めそうではあり、ミナモが言うように150歳まで生きる可能性もありはするだろう。 しかしこの90歳の老女にとって、それは突拍子もない話に思えた。全身義体の歴史は30年と浅い。脳核のみの彼らが何処まで生存可能なのかを理論化するには、その実例が積み重ねられるのを待たなくてはならない状況にあった。 そして全身義体化の施術とは、長時間の手術を経た後に義体に慣れるためのリハビリもこなさなくてはならない。そのため、その施術は老境に至るまでには行っておくべきだと、2030年代の黎明期の時点からされており、当時50代だった久島永一朗はその限界とされる年代だった。現在生き残っている全身義体の人間で、彼は最高齢の年代に含まれているだろう。 逆説的に言うならば、全身義体化した人間の寿命については、80歳そこそこの年齢までの実例しか残っていない。150歳まで生きるかどうかなど、フィクションの世界の話に過ぎなかった。 ――…それは頼もしい事ね。あなたが言うなら本当にそうなりそうな気がするわ。 そこまで思惟を巡らせたならば、これは空想に満ちた話として、老女の中で心の整理がついていた。そうなると微笑みが再来する。動揺にも似た驚きが落ち着き、ミナモに優しく話し掛けていた。 ――でも、惜しむらくは、私はそんな弟を見届けられそうにないと言う事ね。私はこんなに老いていて、正真正銘の生身ですから。 老女の穏やかな語りがミナモの耳元に届いている。その言葉に少女は何かを言おうとして軽く口を開けて息を吸う。しかし、その先には続かなかった。 ――不甲斐無い姉に代わり、これからも永一朗を宜しくお願いしますね。蒼井ミナモさん。 まるで言葉ごと一礼をして来ているかのような印象で、その台詞がミナモに語り掛けられていた。それは本当に優しげで、落ち着いている老人のものだった。 |