10月末の土曜の昼下がり、蒼井ミナモは水上バスの人となっている。
 これは住宅区画を経由する路線の水上バスだが、乗客の数は少ない。そもそも路線自体が然程利用されない種類のものらしく、運行されているバスも小型だった。それでも席は全て埋まってはおらず、彼女の隣のふたり掛けの席には誰も居ない。
 放課後だと言うのに、ミナモは人工島中学校の制服を纏っている。白基調のセーラーに、空の太陽からの水面の照り返しが微妙な陰影を添えていた。結い上げられた褐色の髪がそよ風に揺れ、ピンク色の大きなリボンが目立って見える。
 彼女は膝の上に簡素な布製の手提げ袋を置いていた。その中には、いくつかの角ばった直方体の箱が重ねられているらしい。そしてその隣にはポーチ型ケースの上に手頃なポシェット大の肩提げ鞄が積まれている。それらの様相から、この女子中学生は結構な荷物を抱えている事になる。
 水上バスはゆっくりとした速度を保ったまま、滑らかに水路を走ってゆく。直射日光を避けるための半透明の屋根を頭上にしつつも、ミナモはふと思い付いたようにその肩提げ鞄に手を伸ばした。俯き加減にそれを覗き込みつつ、そのファスナーを上げる。
 ミナモはその鞄の中に手を突っ込み、ピンク色の携帯端末を取り出した。ダップーと呼ばれるマスコット犬が走る待ち受け画面に指を当て、彼女はそれを操作し始める。少女の指が触れる事でその画面上には数字盤が表示されたが、彼女はその数字を選んで打ち込んでゆく。
 やがて彼女は顔を上げ、耳元にその端末を押し当てた。若干の真剣そうな面持ちで、しばし沈黙する。
 この島の住民では少数派に属する人間ではあるが、ミナモは未電脳化者だった。メタルアル・ネットワークを基幹システムとして採用している人工島においては、その住民は電脳化を前提としている。
 もっとも、電脳化のために投与されるナノマシンにアレルギーを生じる人間も居れば、接続するメタル自体に様々な障害を抱えてしまう人間も居る。或いは単なる信条的問題として、電脳化を良しとしない人間も存在する。
 それでも、人工島はそう言った人間達を排除する島ではない。全ての人間に対して、メタルを利用するための代替案を提示している場所だった。ミナモが携帯しているペーパーインターフェイスが、そのひとつである。彼女はこれを用いる事により、電脳化している人間とメールや電通のやり取りを可能とする。そしてそれは未電脳化者同士であっても、やり方は変化しない。
 軽く眉を寄せ、ミナモは耳元で鳴り続けるコール音を聞き流している。しかしそれもやがて途切れた。途端に彼女の表情が明るくなる。
「――久島さん!お元気ですか?」
 元気一杯と言った感の声が、ミナモの口から漏れる。その声量は若干大きなものであり、周辺の席に座っていた乗客達が何事かと言わんばかりに彼女の方を見た。
 電脳化している人間は、通常電通は音声を介さない。傍から見たら無言で会話を交わしている事になる。だからそれに当て嵌まらないミナモには注意を引かれた訳である。しかし彼女の手元に携帯端末がある事に誰もが気付き、すぐに興味は失われてゆく。船上の誰かに呼びかけた訳ではなく、電通なのだと把握し、全員が自らの作業に戻って行った。
 人工島住民にとっては「久島」と言う名はかなり重要な意味を持つが、元来それは日本人や日系としては珍しい苗字と言う訳でもない。だから、ここで出されたとしてもそれは彼らの知る「久島」である訳がないと、そのまま聞き流されて行った。
 ミナモは自身に視線が集中した事に気付き、苦笑いを浮かべていた。しかしその視線もすぐに分散したので、耳元の声に意識が向く。
 ――あら、ミナモさん。お久し振りね。
 ペーパーインターフェイスを介し、ミナモの耳には老いた女性の声が届いていた。その声にミナモは満面の笑みになる。
 その電通相手は日本に居住している人物である。もしかしたら彼女の現在地は日本以外の外国であるのかもしれないが、少なくとも人工島入りはしていないはずだった。それでも音声は非常にクリアなままである。ふたりの間に存在するリアルの距離を一切感じさせなかった。
「久島さん、今大丈夫ですか?」
 ――ええ。老人らしく暇を持て余している所だから、構わなくてよ。
 会話の相手は加齢を経た声の持ち主であり、ゆっくりと言葉を紡いでいた。しかしその声質は何処となく凛としていて、美しい印象を与えるものだった。
「えっと…千枚漬けでしたっけ?それを送って頂いてありがとうございました!」
 携帯端末を抱えるように耳元に押し付けつつ、ミナモは笑顔でその言葉を告げていた。にこにこと微笑んでいる。
 少女が今会話している相手とは、久島のぶ代と言う名の人物だった。その苗字が示す通り、彼女は神としてこの人工島に君臨していた電理研統括部長久島永一朗の血縁者であり、付け加えるならば現世に遺された唯一の肉親かつ実姉である。そして彼女自身も日本舞踊の著名な師範であった。
 しかし、前者の立場には彼女は一切の意味を置かず、後者についても自分はあくまでも踊り続けてきただけでありその評価は後から着いて回っているだけに過ぎないと言わんばかりの態度を貫いている。世界レベルの芸術家らしく、偏屈で変わり者である部分を保持している人物と言えた。
 そして、90歳と言う高齢かつ一切義体化していない生身だと言うのに、彼女は衰えを知らない人物だった。
 流石に肉体的には衰えは隠しきれないが、それでもその脚で美しく立ち、歩くだけの基礎体力は未だに持ち合わせている。そして思考は在りし日の弟同様に明晰のままであり、人工島の名だたる評議員達と言えども太刀打ち出来そうにもない女傑だった。
 更に長年の舞踊経験に裏打ちされた、日本本国の資産家や政治家との繋がりも深い。彼女は日本との関係が強い人工島にはこれまであまり関わろうとはしない人物ではあったが、それでも人工島の政財界の住民にとっては重要人物のひとりである。
 しかしこのミナモにとって、その老女の印象はあくまでも「久島さんのお姉さん」に過ぎない。
 それは彼女を軽んじている訳ではない。彼女の弟に対するものと同様に、その立場も年齢も取り払った先に見出される、親しみを込めた態度がそこにあった。
 結局の所、ミナモは彼らを「お友達」と認定しているのである。各々の世界で技術と地位を極め、それに相当するように年齢を重ねている人々であっても、少女の前に立てば単なる一個人に過ぎないのだ。
 
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