隔離病棟の屋上からは、風が去っていた。 その間も、ミナモは身じろぎもせず、久島を見つめていた。しかし風の拭き戻しが彼女の髪を逆方向に揺らし、首筋をくすぐった時点で我に帰る。 慌てて手の中でバイオリンの音色を奏で続けているペーパーインターフェイスを見た。焦りを含んだ声が、彼女の喉から漏れる。 「――波留さんに、連絡」 「無駄だ。この奇跡はすぐに終わる」 そんな少女に対し、義体は穏やかな微笑を浮かべていた。静かではあるが暖かい声で、彼女を制止する。 「おそらくはハレーの残滓に地球律が反応したんだ。毎年現れる流星群ではあるが、何せ今年はハレーが通過してから僅か3ヵ月後の襲来だ。地球がその残滓に触れて何も起こらないはずがない」 「久島さん」 ミナモはペーパーインターフェイスのモードを切り替えていないため、相変わらずカズネの演奏が流れ続けている。それも終盤に入りつつあった。 その音色を手元から流しつつ、彼女は短く彼の名を口の中で繰り返す。まるでそれしか言えないかのように。そんな彼女に、久島はあくまでも優しく説明を続けてゆく。 「しかし、ハレー彗星本体であっても、一晩の奇跡に過ぎなかった。しかもあの日は電力の停止もあり、あんなにも静かな原初の夜となっていたのだ。今晩も確かに電力の自粛は行われているようだが、それは局地的なものでしかも用途が限定されている。私がこの義体に戻っていられるのは、せいぜい10分と言う所だろう」 「…やっぱり、久島さんなんだ…――」 その説明を訊きながら、ミナモは顔を両手で覆っていた。思わず手にしていたペーパーインターフェイスを、取り落とす。それは足元に落下して屋上の床に激突した。その後広い面を下にして着地するが、その間もバイオリンの音色は続いていた。 彼女は自らの端末の事に一切意識を向けていない。感慨を漏らしつつも、頬が紅潮してくるのを感じる。目許が熱い。俯くと首筋に髪が掛かる。 顔を覆う指には睫毛が当たっている。そして掌に向かい、水滴が流れてゆくのを彼女は感じていた。それを意識すると、顔の熱さが最高潮に達する思いになる。 しかしミナモには溢れ出した自らの感情を押し留める事は出来そうになかった。肩が大きく揺れ、しゃくり上げる。 その彼女の様子に、車椅子の久島も気付いた。僅かに驚いたような表情を浮かべる。ミナモを見やり、何かを言いたげに口を開いた。 しかし彼は軽く息を吸い込んだだけで、それ以上は何もしない。その息も短く吐き出す。ゆっくりと視線をミナモから外し、彼女の足元に至った。 そこにはピンク色のペーパーインターフェイスが転がっている。そして伸びやかにバイオリンが音を響き渡らせ、そしてその音色が夜闇へと消えてゆく。60年以上前の彼の弟弟子の演奏はそこで終わりを告げ、彼の前から去って行った。それに彼は目を細める。眉を寄せ、口許を微かに歪めた風に笑みを零した。 「――…ミナモさん。私の前で泣かれても、困るな…」 ミナモはその声に動きを止めた。気付いたように息を漏らす。目許を拭うが、また感情が溢れてきた。顔を上げられず、謝罪の言葉が口を突いて出てくる。 「…ごめんなさい」 リピート再生の設定にはなっていなかったらしく、カズネの演奏はもう鳴り響く事はない。完全な静寂の中、屋上ではミナモの嗚咽が微かに響いていた。 それに久島は俯く。見ていられない気分になる。困り果て、自らの身体に視線を落とした。確かに見覚えのあるスーツを纏っているが、何故だか車椅子に腰掛けている。 そして、これは7月までリアルに存在していた自らが使用していた義体であるはずだったが、今はどうしても四肢を動かせない。出来る事と言えば見聞きして喋る事程度だった。 やはりこれはハレーの不安定な干渉に過ぎない。完全にリアルに戻る事など、あの時知識を得るためにリアルを捨てた自分には不可能なのだろう――久島はそう考えた。それだけの代償を払って、ようやく得た知識なのである。それを波留にあの時伝えたのである。 ふと、手元に視線を向ける。左手首に何かが嵌められている事に、彼は気付いた。僅かに身じろぎするとその袖口がずれ、そこにある黒いダイバーウォッチが明らかになる。それを認めた久島は驚いた。それは紛れもない親友の物であったからだ。 「全く…こんな時に波留が居ないとは、つくづく女性に対して間が悪い男だな」 久島は左手首に視線を落としながら、苦笑気味にそう呟いていた。そのダイバーウォッチに思い出が刺激されている。何故自分の義体にこれがあるのかは良く判らないが、巡り合わせと言うものなのだろう。 暫く時間を置いた事で立ち直ったのか、ミナモが目許を手の甲でごしごしと擦っていた。上体ごと俯いていた顔をぱっと上げる。 顔は熱いし目許も擦り過ぎて若干の痛みを感じるのだが、彼女はもうそんな事は気にしない事にした。頬を軽く叩き、気合を入れる。そして笑顔を浮かべるように心掛け、久島を見た。 「――久島さん。波留さんとはあの時会えたんですよね?」 「ああ」 ミナモの問いに、久島は強く頷いていた。ここで言う「あの時」とは一体何を指すのか、具体的に表現しなくても判っていた。 「その後は?独りだったら寂しくないですか?」 「さあ…私としての自意識がこうして具現化するのは、ハレーの影響を受けた時のみのようだ。それ以外の時は海の深層に含まれる知識の一端として、全ての中のひとつとして溶けていると言うべきなのか…意識がない以上良く判らないが、条件を満たせばこうやって知識と記憶とを伴い復帰出来るのだから、完全に溶けてしまっているとも言い難いのか…」 久島の言葉は要領を得ない。答えつつも自ら考えているようだった。その思惟に落ちそうになる久島に、ミナモは別の話を持ち掛ける。 「えっと…久島さんが居なくなってから、お姉さんとお会いしました」 「――私の姉さんと?何故また君と」 それは久島にとって相当意外な話であったようだ。声と表情がそれを現している。久島のイメージにそぐわないようなその態度に、ミナモは微笑んだ。 「人工島に来たんですよ。色々あって」 「強烈な人だっただろう?……いや、私も50年近く会っていないままだったから、確証は持てないんだが」 「でもとてもいい人ですよ。その辺はしっかり久島さんのお姉さんだと思います」 ミナモが胸を張ってそう言うと、久島は苦笑を深めていた。困ったように笑う。それは照れ笑いのようにも見えるものだった。 それに付き合うように、ミナモも笑った。そしてまた別の話題を振ろうとする。 「…一之瀬さんとも、この前また会ったし…――」 しかしそこで、ミナモの声が途切れる。またしても喉が震え、掠れた。言葉が続かない。やはりこみ上げてくるものがある。彼女はそれを止められない。再び両手が顔を覆う。 伝えたい事はいくらでもあるはずだった。 しかし、それが上手く出てこない。泣いて言葉を詰まらせている場合でもないと言うのに。 そもそも、言いたい事が纏まらない。時間がないと言うのに。 私はこんな事をしている場合ではないのだ。 ――彼の前に居るべきは、私ではないのだ。 流星は彼らの頭上から、いくつも降り注いでいる。 |